2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

バッハについて

内容

● 現代人の感覚に強く訴えるバッハの音楽の力 ●

● バッハの二声と三声のインベンションについて ●

● バッハ 平均律クラヴィ−ア曲集 ●




現代人の感覚に強く訴えるバッハの音楽の力
作成 1989年11月21日/ 改訂 1999年6月

 現在、ピアノで演奏されるバッハの器楽曲の全ては、クラヴィコ−ドかチェンバロ のために書かれたものであった。つまり、その頃は、現在われわれが目にするようなピアノという楽器は存在しなかったのである。これは勿論のことそれだからといって、バッハの作品をピアノで演奏することを、頭から否定するために強調しているのではない。一口に言うならば、その時代のいずれの楽器も、現代のピアノからすれば、機能も音量も較べるべくもないほど、格段に劣っていたのである。したがって、巨体で万能なピアノによってバッハを演奏するからには、そこにはより一層の配慮が必要となってくる。

  作品の時代背景や楽器の機能の制約に無関心で演奏することは、作品の本来の姿を変えてしまうことにもなりかねない。

  確かに、バッハの時代、楽器の機能は比較を絶した程に貧粗であった。しかし、実はそのことが逆に、バッハの作品の音の装いの中に、何物にも変え難い魅力となって現れているのである。

  クラヴィコ−ドやチェンバロ特有のえも言われぬ鼻音色や、様々な装飾による諧謔的効果や、恥じらいの風情などからすると、一見、抽象的で謹厳そのもののように思われているバッハの音楽は、実に豊かな彩りを持っていることが良く判る。それは、例えば天才的なピアニスト、ブゾ−ニの編曲によるバッハの作品を聞く時、それが単なるオルガンの響きの模倣やヴァイオリン曲の編曲にとどまらず、バッハの音楽の宇宙的広がりを現代のピアノという楽器によって再現していることからも窺える。

  これら全てが、どれ程、現代人の感覚に強く訴える力を持っていることだろうか。それが、バッハの音楽がジャズ、ポピュラ−、ポップの分野でも、種々様々な現代風アレンジや編曲が試みられることになる所以である。しかし、クラシックの演奏に関して言えばバッハに対する解釈を無制限に拡大することは、そこに非常な危険な落とし穴があるように思う。つまり方法論を先にして、演奏の奇を衒うことを主眼としたり、意表を衝くことを目的とした演奏に終始することは戒めるべきであり、それによっては、バッハの音楽の意味を不問に期すことにもなると思うので慎重に扱うべきである。




バッハの二声と三声のインベンションについて
作成 1989年4月14日/ 改訂 1999年6月

●原典、及びその練習順序

 バッハの音楽については色々な研究がなされているが、バッハの音楽を考える時、いつも頭に浮かんでくることは、ベ−ト−ヴェンの言った「Bach、すなはち、小川というは愚かだ、まさに大海と言うべきだ」という象徴的な言葉である。
  また、「バッハの平均律48曲を旧約聖書に譬えるならば、ベ−ト−ヴェンの32曲のピアノ・ソナタは新約聖書である」といったハンス・フォン・ビ−ロ−の言葉にもあるように、バッハの音楽はポリフォニ−音楽の根源として、一つの基準を示すものとして常に考えられてきた。
  バッハの音楽は、古典派からロマン派、更に現代へと、音楽を勉強して行けばゆくほど、その偉大さが改めて認識されるものであり、その音楽の中には人間感情の全て、喜び、悲しみ、怒り、笑い、愛、苦悩、思案、瞑想、そうした表情と発想が含まれていることが判る。

 そしてバッハの色々な音楽のなかで、ピアノを勉強する人の全てが最初にたどる曲 、二声と三声のインベンションについて述べるのは、音楽の原点にたちかえって考えることでもあり、大変に嬉しい。
  二声と三声のインベンションについて、勉強を始めるときに一番の障害となることの一つには、テキストの問題がある。つまり、それは原典と言われているものについてである。

  バッハの頃は楽譜の印刷出版などということは、大変な手間とお金のかかることであった。
  音楽一家であったバッハ一族は、息子達のため、妻のため、師弟のため、音楽愛好家のために、楽譜、教材、課題などを、常に書いたり写譜したりしていたので、音譜を書くことは日常茶飯事のことであった。
  そのために、後世になって多数の「原典版」というものが出てきたが、つまりそれは、どれが正しいのかではなくて、そのいずれもが作曲者のその時々の意図したことの現れであって、正しいものであるといって良い。
  しかし初心者にとっては、その数多くの異なる原典から、どれが本当にその時々のバッハの意図したものであるか、その意向を正確に読み取ることは、決して易しいことではない。

  原典と考えられるものには、幾通りかの写譜がある。

  1. 1 −7 はバッハ以外の筆になるもの、二声は Preaemblum 三声は Sinfonia と名付けられていて、三声のニ長調の終わりの部分と、ハ短調は欠けている。
  2. バッハの自筆とされているもの、ハ長調の二声のインベンションの後に三声が続くという風に配置されている。
  3. エマ−ヌエル・バッハを経て、後にベルリン国立図書館の所有となるもの。
    これに、バッハがライプチッヒ時代に、多分、教材として書き足した数多くの装飾音がついたものがある。

 このように、原典テキストは幾種類もあるが、バッハが纏めたテキストの頭書に二声と三声のインベンションについて、意図したことを実に的確に書き記しているので意訳を書いておく。

『誠実なる指導、それによってクラヴィ−アの愛好家、なかんずく、特に勉強を希望する者たちに、
  1. 二つの声部を純粋に演奏することを学び、更に上達した人達には、
  2. 三つの声部を正確かつ適切に処理することを学び、それによってなによりもカンタ−ビレに歌う奏法を達成して、それとあわせて作曲することへの事前の強い関心を呼び起こすことに至たる、明確な方法が示される。
アルンハルト=ケ−テン領主公殿下のカペルマイスタ−
ヨハン・ セバスティアン・バッハ
キリスト紀元1723年』


 この文章は良く読んでみればみるほど、バッハの意図を的確に表す名文であり、それにつけ加える何の言葉も必要としないものである。
  さて楽譜としては、次の出版社のものをあげることが可能である。

  ● Peters 版 Urtextausgabe(原典版)
  ● Landshoff 校訂 Steingraeber 版 Leipzig.
  ● Dr.Hans Bischoff 校訂 Schott版
  ● Max Reger・August Schmid-Lindner 校訂 Breitkopf 版
  ● Busoni 校訂 Wilhelm Hansen版
  ● Edwin Fischer 校訂 音楽之友社 原典版
  ● 長岡敏夫編 Henle版
  ● 全音出版社


 他にヴィルヘルム・フリ−デマン・バッハのためのクラヴィ−ア小曲集というのがあって、そのなかにバッハがどのようにしてこの曲集を書き始めていったかを知るための数曲があり、創作の手掛かりを我々に教えてくれるので大変に貴重である。
  それによればバッハは次のような順番で二声をPreamblum 、三声をFantasiaと名づけて書いている。
  これを現在の作品の順番と並べてみれば、次のようになる。

二声 Preamblum-Inventio C- Dur ハ長調 1
    d- Moll ニ短調 4
    e- Moll ホ短調 7
    F- Dur ヘ長調 8
    G- Dur ト長調 10
    a- Moll イ短調 13
    h- Moll ロ短調 15
    B- Dur 変ロ長調 14
    A- Dur イ長調 12
    g- Moll ト短調 11
    f- Moll ヘ短調 9
    E- Dur ホ長調 6
    Es-Dur 変ホ長調 5
    d- Dur ニ長調 3
    c- Moll ハ短調 2
三声 Fantasia - Sinfonia C - Dur ハ長調 1
    d- Moll ニ短調 4
    e- Moll ホ短調 7
    F- Dur ヘ長調 8
    G- Dur ト長調 10
    a- Moll イ短調 13
    h- Moll ロ短調 15
    B- Dur 変ロ長調 14
    A- Dur イ長調 12
    g- Moll ト短調 11
    f- Moll ヘ短調 9
    E- Dur ホ長調 6
    Es-Dur 変ホ長調 5
    D- Dur ニ長調 3
    c- Moll ハ短調 2


 このように、初めに着想されて書かれた順番と、曲集として纏められた配列を較べることによって、例えば、変ホ長調やハ短調といった曲をバッハ自身かなり難しい曲と考えていたことが判るのである。

 私自身の提案としては、次の順序で勉強することが望ましいものと考える。
  • Inventionen
    1 ,3 ,4 ,7 ,10,13,14,15,2 ,8 ,5 ,6 ,9 ,11,12.
  • Sinfonia
    1 ,2 ,3 ,6 ,8 ,10,12,15,4 ,5 ,7 ,9 ,11,13,14.
 そして、それぞれの作品は、決して無味乾燥な作曲技法の手本ではなくて、そこには、音楽に含まれる全ての喜怒哀楽の表情があることを知るべきだと思っている。



バッハ 平均律クラヴィ−ア曲集
作成 1992年7月10日/ 改訂 1999年6月

 バッハが平均律クラヴィ−ア曲集第1巻の巻頭に美しい唐草模様をかたどった書体で書き込んだ文によれば、

『平均律クラヴィ−ア曲集、すなわちすべての全音と半音の調、
 もしくはド、レ、ミによる長3度とレ、ミ、ファによる短3度
 によるプレリュ−ドとフ−ガ。
 学習熱心な音楽を勉強する若者のために役立つように、そして
 既に、それによって習熟した人達の特別の楽しみのために

 アンハルト・ケ−テン領主公殿下の楽長
 ヨハン・セバスチァン・バッハによって起草、作成。 1722年。』


とある。バッハのインベンションの完成は1723年。それに先立ってこの曲集を創作したのである。しかしこの曲集の着想のいくつかは、以前に作曲されていて、バッハの息子の、「フリ−デマンのためのクラヴィ−ア小品集」に集められている。そこには、ハ長調、ハ短調、ニ短調、ニ長調、ホ短調、ホ長調、ヘ長調、嬰ハ長調、嬰ハ短調、変ホ長調、へ短調の11曲のプレリュ−ドだけが書かれているのである。
 したがって、プレリュ−ドに加えて書かれた後のフ−ガは、それぞれのプレリュ−ドに相応しい対応する性格が考案されていてバッハの創意を知るこのうえもない範例となっている。

  しかしバッハが最終的に「プレリュ−ドとフ−ガ」という形で24の調子による曲集をまとめあげたのは、1702年に出版されたヨハン・カスパ−ル・フェルディナント・フィッシャ−の曲集がバッハの念頭にあったからである。
  フィッシャ−のそれには、5つの調子、変ニ長調、変ロ短調、変ホ短調、嬰ヘ長調 、嬰ト短調が除かれているので、24の完全な調性によるものはバッハが最初となった。

  一方、20年以上の間隔をおいて作曲された平均律クラヴィ−ア曲集第2巻は、1744年、 バッハ59歳の時代にライプチッヒで完成された。それは晩年のバッハの作曲を反映した集大成であり傑作である。
  その着想の一部は既にケ−テン時代にもあるものだが、大部分はバッハの晩年の作風であり、プ レリュ−ドにおいて特にその変化は顕著である。プレリュ−ドは前半と後半がそれぞれ繰り返されるという2部形式で、第1巻にはロ短調の1曲であったのに対して、第2巻にはそれが10曲もある。
  それらは組曲の楽章、あるいは二声三声のインベンション形式、またはソナタ形式へと近づいてゆくのである。また長大なプレリュ−ドは、それだけで完結したオルガン・プレリュ−ドの性格を示している。

  ところで、バッハの時代の鍵盤楽器といえば、クラヴィコ−ドとチェンバロ、それにオルガンであって、ピアノという楽器は存在しなかった。そのことからバッハの作品のピアノによる演奏については、種々様々な問題が提起されてきている。
  このバッハの平均律ピアノ曲集も、多くのピアノ学習者や音楽愛好家達が必ず勉強するのだが、バッハの作品のピアノによる演奏について確固とした指針を持たないまま音譜をならべても、それだけでは演奏にはならないのである。
  ピアノで演奏するということは、そこには新しい演奏方法、つまり旋律のレガ−トにも、スタッカ−トにも、ダイナミックに関しても、ペダルの使用に関しても、楽曲の演奏速度についても、より緻密な配慮が必要となってくる。

  ピアノで演奏するためには、たとえばレガ−トを例にとっても、チェンバロで演奏するのとは異なった、より綿密なアゴギ−クによって奏されなければならない。また和声内部での旋律の動き、とりわけ主題の扱い、またその強調は、ペダルの微妙な使用によらなくては、ポリフォニ−の音楽を現在のピアノで再現することは困難である。
  チェンバロの微震音、鼻にかかつた顫音による和音の進行の響きをピアノで再現するには、なめらかな響く音色を作り上げるためのペダルの効果は最適である。
  そのためにはピアノによる新しい解釈と新しい奏法が生じてくるのが当然であって、クラヴィコ−ドやチェンバロの演奏をピアノでなぞるのでは全く意味がない。

  このようにしてバッハの鍵盤楽器の作品の解釈が、先人たちの偉大な演奏家や教育者達によってそれぞれの時代によって色々の注釈が行われたことは敬服すべきことであって、平均律クラヴィ−ア曲集も、カ−ル・チェルニ−、フェルチオ・ブゾ−ニ−、マックス・レ−ガ−などによる校訂版などが出版されている。
  そしてまた原典と云はれる種々な出版本、たとえばペ−タ−ス版、ビショップ版などの原典版は、それらをふまえた上で解読してこそ、そこに新しい意義を見いだせるのであって、その努力なくしては、原典版は単なる枯渇した音譜例の記録でしかない。ましてや、書かれた音譜そのままだけをピアノで演奏出来るものではない。

  バッハの時代のクラヴィコ−ドがどんな音であったかを知る手掛かりとして、有名なチェンバロ奏者である、ラルフ・カークパトリック演奏のクラヴィコ−ドによる平均律クラヴィ−ア曲集の演奏レコ−ドがある。
  そのえも言われぬ回顧的な響きに心なごむ思いはするものの、そのか細い不揃いの音やとぎれとぎれの旋律や和音の持続の薄さには当惑する。楽器の機能の未熟さから生じる音のばらつきや不均衡はクラヴィコ−ドの宿命的弱点である。
  それに較べれば、バッハの頃にも存在したスピネットやチェンバロは、現在のものと比較すれば貧弱とはいえかなり鑑賞できる。
  しかしそれとても、5本のレギスタ−・ペダル付二段鍵盤の現代のチェンバロと比較すれば格段の差 がある。
  したがって同じチェンバロの演奏にしても、古い楽器のプレイエルによるワンダ・ランドフスカの平均律の名演奏と、新しい楽器ノイペルトによるヘルム−ト・ワルヒャの名演奏のそれとでは、それぞれ異なった感銘を覚えるのである。
  そしてピアノによる演奏となれば、チェンバロとは全く異なる演奏様式による平均律の演奏が出てくるのは当然であり、エドウィン・フィッシャ−やワルタ−・ギ−セキングの速い速度による記念碑的なピアニスティックな演奏がそこにある。

  私は1977年にもこの平均律曲集を録音したが、そのときはチェンバロで奏される旋律の分節法、すなわちスタッカ−トやレガ−トのア−ティキュレ−ション、装飾音、トリル等に興味を持ち、それを如何にピアノに置き換えるかに苦心した。
  今回の録音に際しては(1992年)その配慮の上で、ピアノによる、よりピアニスティックな演奏に努 力し、テンポについても早いものは早く、遅いものはピアノの音の響きを利用して拡大し、ペダルの使用も充分に考慮して、ピアノによる演奏を変化あるものにした。

  時代の移り変わりと演奏楽器の発展により演奏様式も変化して行くのは自然であって、現在のピアノによるバッハの平均律クラヴィ−ア曲集の演奏は、全てその歴史的経緯を踏まえたうえでなされるものなのである。
  それは全てバッハが平均律クラヴィ−ア曲集の巻頭に書いた、「音楽学習者の喜びをうながす」ことであり、ピアノという現代の楽器によって、その機能を生かしたピアノの特性を生かした演奏をすることは、バッハの意図から逸脱したことではない。

園田高弘