2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

ベートーヴェンを巡る女性、『不滅の恋人』



内容

■ベートーヴェンの死んだ家
 ベートーヴェンが亡くなった家は、ヴィーンのシュヴァルツシュパーニア・ハウス(黒スペイン館)と呼ばれる建物の三階で、現在ヴィーン九区内にあるその家屋は建て替えられ商店になっています。

■恋文の発見
 ベートーヴェンの死後、遺言の執行人になっていたシュテファン・ブローニングは、アントン・シントラーとベートーヴェンの弟ヨハンの立会いのもと、晩年ベートーヴェンが親しくしていたヴァイオリニストのカール・ホルツの助けで、遺品を整理していて机の秘密の引き出しを発見、
  ◎ 探していた銀行株券七枚と、
  ◎ ハイリゲンシュタットの遺書、
  ◎ 二枚の細密画、
  ◎ 三通の恋文、  が見つかりました。

 この手紙はベートーヴェンが残した手紙の中では類を見ないほど、愛情の高揚と気持ちの乱れを示しているものですが何時、何処で誰に宛てて書かれたものかは判らなかったのです(Duで書かれた唯一のもので、固有名詞はおろか、イニシアルさえも一度として書かれていません。判っていることは、一緒に暮らすことが出来ない重大な障害が二人の間にあること、相手の名前も自分の名前も決して第三者に知られることがないように、ベートーヴェンはそれに細心の注意を払っていたこと。)

■ジュリエッタ
 『不滅の恋人』がジュリエッタ・グィチャルディーであるとしたのはシントラーが出版したベートーヴェンの伝記のなかで、彼がそう主張したからです。
 その根拠の第一は、ベートーヴェンから生前にこの女性の名前を聴いたこと。第二に、作品27−2『月光』が彼女に献呈されていること、第三に秘密の引き出しから発見された女性の細密画の一枚がジュリエッタの息子によって彼女のものであると確認されたからという理由でした。
 もう一人の証人、ブローニングはベートーヴェンの後を追うように数カ月後に他界してしまったので、永いこと誰もシントラーの説を疑うものはいなかったのです。

■テレーゼ
 死後50年を経て、最初の異説は有名なセイヤーの伝記「ベートーヴェンのの生涯」によってとなえられ、ハンガリーの伯爵令嬢テレーゼ・フォン・ブルンシュヴィックこそがそれであるとされました。
 その決め手は、彼女が描いて贈った肖像画が死ぬまでベートーヴェンの身辺に保存されていたことによるのです。それは現在、ボンのベートーヴェン・ハウスに展示されています。 それは永いこと伝えられていたような秘密の引き出しから出たものではなく、ずっと大きい。)ではもう一枚の細密画は誰なのでしょうか。

■マリ・エァデーディ
 そのもう一枚の細密画は永いことマリー・エァデーディ伯爵夫人のものとされていきたのですが、この細密画は残されている他のエァデーディ夫人の面立ちと明らかに違うのです。また、ジュリエッタとされていた細密画についても別人説が現れました。その理由としては、認めたのが彼女の息子であったことで、自分の母親の17才当時の姿を見たことがない息子の誤認の可能性は否定出来ないということです。

■恋文について
 一方、手紙という証拠をめぐって、100年前の気象記録、古文書、当時の新聞、関係資料、秘密警察の記録文書、当時の駅馬車、郵便馬車の発着時刻までの綿密な調査が行われました。こうした努力によって、問題の手紙は1812年、ボヘミヤの温泉地テプリッツからカールスバートに向けて書かれたものであり、ベートーヴェン42才の夏ということが判明したのです。

■未知の女性
 そして「未知の女性」説、イコール『不滅の恋人』が有力とされていたベートーヴェンの〔恋人〕の候補であったジュリエッタ・グィチャルディーとテレーゼ・ブルンシュヴィックは、『不滅の恋人』ではないことが明白となりました。
 たしかに二人がベートーヴェンの青春に密接な関係があったことは確かですが、この極めて対照的な二人の女性は従姉妹同士で同じ家系ブルンシュヴィックであったが、その中にはベートーヴェンがもっと心を魅かれたもう一人の女性がいたのです。それはジョセフィーヌでした。

■ジョセフィーヌ
 舞台はハンガリーのブタペストに近い伯爵家の別邸、マルトンヴァーシァルの館でした 。ブルンシュヴィック家には、テレーゼ、弟フランツ、妹ジョセフィーヌ、末娘シャルロッテの四人がいました。ベートーヴェンとの運命的出会いは1899年5月のある日、伯爵夫人につれられて、レッスンを受ける目的でブルンシュヴィックの姉妹テレーゼとジョセフィーヌが彼に会ったことです。
 その頃、若くて気難しい巨匠ベートーヴェンはヴィーンでは人嫌いで会うことも無理であろうと噂されていました。ところが話とは凡そ違って、ベートーヴェンは直ぐさま親密に打ちとけた態度となり熱心にレッスンを行うようになったのです。この18日の期間のベートーヴェンとの交際が、後にすべての人々にとって運命的なものとなったのです。

 ジョセフィーヌはその後直ちに結婚させられてダイム伯爵夫人となり、夫ダイムは投機に失敗して破産状態に追い込まれ、ジョセフィーヌは子供をつれて離婚、1800年の秋から冬にかけてベートーヴェンはジョセフィーヌの前に再び現れたのです。

■ジュリエッタ
 ここに別の人物が現れる。それがジュリエッタです。
 彼女の母親は故ブルンシュヴィック伯爵の妹、つまりテレーゼ達叔母でした。ベートーヴェンはジュリエッタと恋愛関係になり、親友ヴェーゲラー宛てに手紙で得々とそのことを吹聴して書いているのです。ベートーヴェンの自慢にもかかわらず、ジュリエッタは身分の違いから、当然のこととしてガルレンベルグ伯爵と結婚してしまいます。
 ジュリエッタに『月光』ソナタを捧げた7か月後、1802年10月ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書かれているのですが、耳の障害があったとしてもこの遺書がジュリエッタと直接の関係があったかどうかは定かではありません。

■ジョセフィーヌ
 ブルンシュヴィックの二番目の娘ダイム伯爵夫人となったジョセフィーヌは、不幸な結婚で社交界から締め出され、毎年出産していた。彼女はしばしばベートーヴェンの訪問を受けていました。
 ジュリエッタとテレーゼがベートーヴェンの伝記のなかで主役であった間、ジョセフィーヌはずっと忘れ去られていたのです。
 しかし、そもそも『月光』ソナタを最初に弾いたのもジョセフィーヌであり、エロイカ、アパショナータ、レオノーレなどロマン・ロランが〔傑作の森〕と呼ぶこの時期の作品群を、完成される前のスケッチの形で聴いたのはジョセフィーヌでした。
 1804年にダイム伯爵が旅先のプラハで急死します。幼い子供をつれた24才の若い彼女にとって突然の夫の死の衝撃は大きかったのです。その後ベートーヴェンとジョセフィーヌは急激に親密度を増しました。これを姉テレーゼは心配したのでした。

■『アッパーショナー』
 1807年2月、二年前から創作された作品57のピアノ・ソナタ『熱情』を「我が友にして兄弟なるフランツ」に献呈されました。しかし女性ばかりに囲まれて育った不感症な男性、「氷の騎士」とあだなされている人物に贈る作品としては『熱情』は全く相応しくないのです。ベートーヴェンが思い描いていたのは確かにジョセフィーヌではなかったでしょうか。

■肖像画
 1807年5月11日付けの手紙で、テレーゼ自身の肖像画を早く贈ってくれるようベートーヴェンは頼んでいます。(現在ボンにある) この手紙に触発されて、ブルンシュヴィックの三人の姉妹達は自分の肖像画をベートーヴェンに贈ったらしいのです。
 当時、一人の女性が男性に肖像画を贈るというのは、特別なニュアンスを含むのでしたが、若しそれが三人であればニュアンスも相殺されるわけです。テレーゼと共に贈られた写真はジョセフィーヌとシャルロッテであって、つまり、秘密の引き出しのなかの、ジュリエッタとされていたものが、ジョセフィーヌであり、エァデーディ夫人とされたのがシャルロッテであるという推論は成り立つのです。
 1809年にベートーヴェンは作品78のピアノ・ソナタを肖像画のお返しとしてテレーゼに贈っています。

■新しい恋文
 1949年になって、突如1804年から4年間にわたってジョセフィーヌ宛てに書かれたベートーヴェンの13通の恋文が現れました。(正確にはベートーヴェンの肉筆と、彼の手記をジョセフィーヌが自分のノ−トに書き写したもの一通、それと彼女自身のベートーヴェン宛の下書き7葉)。
 この手紙類の出現は大事件でした。
 公表されたベートーヴェンの手紙のなかで、これほど切実に心を打ち明け、深刻に異性に愛を告白したものは他になかったのです。それは『不滅の恋人』への手紙すら色あせる程でした。しかし、色々曲折を経てこの恋は実らなかったのです。
 ジョセフィーヌは最後に「誠実な、愛する、良き、ベートーヴェン、私の方がもっと貴方よりも苦しんでいるのです、はるかに多く」と記されています。

 1807年以降ジョセフィーヌはベートーヴェンに会っていません。
 しかし、ジョセフィーヌに宛てて書かれたベートーヴェンの恋文によっても『不滅の恋人』の謎が解かれたわけではないのです。なぜならば、この恋の関係は少なくとも1807年の秋頃には終末を迎えているからです。
 また、ロマン・ロランは云っていますが、ベートーヴェンと深い係わりのあった女性たちは、何故か皆不思議なくらい沈黙を守ったのでした。
 それぞれの女性は、この魅力に満ちた天才との思い出を聖遺物のように心に秘めたまま生涯を閉じている、と彼は言っています。

 ジョセフィーヌは、ベートーヴェンよりも6年先立って世を去っているため、その存在は一層影の薄いものとなっていました。
 今世紀になってテレーゼの研究が進すにつれて、妹ジョセフィーヌの存在がクローズアップされることとなったのでした。テレーゼが35才過ぎてからつけ始めた『日記』と70才になってから執筆した『回想記』のほかに姉妹の間で交わされた手紙類は、ベートーヴェンの人間像を肉付けする上で貴重な資料となりました。

 それはともかく、ジョセフィーヌは自分自身を保持したまま自由恋愛に生きるには、信仰とモラルがそれを許さなかったのでした。
 彼女は自分の掟を守りつつ、ひたすらベートーヴェンの自制とモラルを頼みました。そして1811年に家庭教師だったクリストフ・シュタッケルベルグ男爵と結婚したのですが、この結婚は彼女の不幸を更に大きくしただけでした。

■真の『不滅の恋人』は誰か
 今まで、あまりにもベートーヴェンの身近な交友関係のなかにあったがため、そして既に結婚していたために考慮から外されていた女性が俄に脚光を浴びることとなったのは不思議です。それがフランクフルトの銀行家ブレンターノ夫人ではなかろうかと目指されたのは、後期のピアノ・ソナタ作品109がブレンターノの娘、マキシミリアーネに献呈されたことに端を発しました。
 作品に込められたベートーヴェンの様々な思い、第二楽章の主題変奏の連作歌曲集『遙かなる恋人に寄せる』の心を込めた旋律を密かに忍ばせたベートーヴェンの心情は、たとえこの娘マキシミリアーネが彼の晩年の身辺に現れたとはいえ、若い娘に対するベートーヴェンの慕情の思いが急に沸き上がったとは考えられないのです。
 むしろその娘を通して、その母親、アントニー、すなわち通称トニーと呼んだ女性に、ベートーヴェンは切々とした思いをもう一度伝えたかったと考えることによって、全ての疑問は解決するのです。

■ベートーヴェンの危機
 その危機の年は1813年でした。遺品として発見された宛名も日付けも書かれた場所も判らない三通の恋文は、近年の驚くべき科学的調査により1812年に書かれた事が判明しました。それは当時の駅馬車の発着時刻表は勿論のこと、新聞の気象情報、宿帳の詳細な追求、果てはその頃の要人達の秘密警察の報告にもとづく行動記録の引き合いなどにより、殆ど日時と場所は確定し、カールスバットにいたブレンターノ夫人がその人であったことは推論出来ることとなりました。

■アントニー
 銀行家ブレンターノと結婚したアントニーは、決して不幸とは云えないまでも夫との性格の違い、また大家族の主婦としての負担に疲れ、三年このかた病気の父親を看病方々ヴィーンに来ていた折りにベートーヴェンとの出会いがあって、次第に心が通うようになったのでした。父の死後、遺産財産を整理して密かにイギリスに行きを計画し、新らしい生活をベートーヴェンと共に持つことを彼女は考えていたのでした。
 そこへ突如としての体の変調、すなわち思いもかけなかった妊娠、それもこともあろうに殆ど別居同然であったのに夫ブレンターノとの「別れの儀式」によるこの突然の異変によって、彼女はもう錯乱状態に落ち入りかけたのでした。
 それを極力宥めるベートーヴェンの愛の手紙の調子、そう考えることによって、あの激情の愛の奔流の文面と、出来るだけ早まったことがないように宥めすかし懇願する奇妙な調子の説明合点がゆくのです。

 更にそれにベートーヴェンにとって運命はもう一つの痛撃、奈落の底に突き落とす事実が重なった。それはジョセフィーヌとのことでした。
 たしかにベートーヴェンは彼女を愛したのでした。しかし前述のように、ジョセフィーヌは最終的にはシタッケベルク男爵と不幸な結婚をしてベートーヴェンから去っていったのです。それも姉のテレーゼの骨折りと采配によって。
 だが経済的に失敗した男爵の失踪から、彼女は非常な経済的苦境に落ち入りました。それをベートーヴェンは懸命に援助した形跡があるのです。永いこと、ある時期のベートーヴェンは社会的変革、貴族の没落によって困窮の時期があったとされていましたが、ベートーヴェンに支払われた出版社からの金額の調査などによって、彼の経済状態はかなり良かった筈であることが判明しています。
 そして、ベートーヴェンに運命の最後の一撃を与えたのは、ジョセフィーヌの最後の子供はベートーヴェンの子供であり、そのミンナ・ベートーヴェンの出産をヴィーンを離れて助けたのはテレーセであり、そのことを奇しくも1812年の同じ時期にベートーヴェンは多分同じカールスバッドで報せを受けたのでした。しかもテレーゼから。
 それがベートーヴェンにとって、どんな衝撃であったことか。

 それ以後に書かれた「ひたすらに運命に耐えるべき」とか胸を掻きむしるようなベートーヴェンの絶望の言葉は、重大な事実を知らせを意味していることなのでした。

 このベートーヴェンの1813年の危機は精神的に深刻でした。
 テレーゼは生涯独身であったこと、彼女は孤児院を経営してそれに献身的に尽くしたこととの暗黙の符号。テレーゼは永いことベートーヴェンの『不滅の恋人』とされていて、後年彼女は質問を受けても一切について一言も語らなかったことの意味も、ジョセフィーヌの運命を差配した自責の念と共に、万感の思いがそこにあったことの証明でしょう。

■エアデーディ伯爵夫人
 1807年の末頃、ジョセフィーヌがベートーヴェンから去った時、ベートーヴェンは深い絶望感を抱いていたに違いないのです。その心の重荷を受け止めてくれる人がいたとしたらそれはエアデーディ伯爵夫人でした。二人の出会いはヴァン・スィーテン男爵家の音楽会でした。1804年にベートーヴェンは引っ越してきて彼女の隣人となって、二 人の親交は始まっています。
 ベートーヴェンは彼女を自分の「懺悔聴聞僧」と呼んでいて、それからは長年自分の恋の悩みを逐一打ち明けていたようです。
 1807年、ジョセフィーヌと別れたあと、エァデーディ伯爵夫人の家に身を寄せていたことは1808年11月12月のベートーヴェンの手紙で、自分の住所をエァデーディ伯爵夫人方としていることから判るのです。しかしそれも長続きしません。
 ベートーヴェンは彼女の家を出て、二人の交際が再び心の籠もったものとなるのは1815年から後のことでした。
 ベートーヴェンは後に作品102のチェロ・ソナタ二曲を彼女に捧げています。これは ベートーヴェンが恋愛感情抜きで、そうした感情が醒めた後でも異性に対して暖かい友愛と感謝の気持ちを持ち続けた一つの証であるとされています。

■ドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人
 こうした友情の例としてドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人をあげることもできます。ベートーヴェンからピアノ・ソナタ作品101を捧げられた彼女は、ベートーヴェンの作品をよく演奏し、ベートーヴェンの死後、彼女の努力がなかったなら、ベートーヴェンはもっと早くヴィーンから忘れ去られていたかも知れないとされています。

■テレーゼ・マルファッティ
 1809年はベートーヴェンにとってもう一つの珍しい年となりました。この三月エァデーディ伯爵夫人と喧嘩別れをして以来、ベートーヴェンの身辺には一人の女性の影もなかったのでした。そのせいか、彼は8才若いグライヒェンシュタイン男爵に結婚を前提として「妻探し」を依頼しているのです。
 そして、グライヒェンシュタインが当時しげく出入りしていた裕福な地主マルファッティ家には、アンナともう一人のテレーゼ・マルファッティとがいました。
 たちまちベートーヴェンはこのテレーゼに熱を上げてしまうのです。

■エリーゼのために
 後世ポピュラーとなる『エリーゼのために』のエリーゼは、ベートーヴェンの悪筆によって、テレーゼをエリーゼと読み誤らせたものだと言われています。ベートーヴェンはこのテレーゼに結婚の申込をして断られる。

■ベッティーナ・ブレンターノ
 ベッティーナはフランツ・ブレンターノの妹、この時25才、同じイタリー系で黒い髪と黒い瞳をしていました。彼女は当時アルニムと婚約の間柄であり、1810年ヴィーンにきて姻戚関係にあるビルケンシュトック家に泊まり、そこでベートーヴェンと出会いました。彼女は直観的にベートーヴェンの芸術に感激して、それをゲーテに伝えることにより、ベートーヴェンとゲーテとの橋渡しをすることになったのです。ベッティーナの書いたベートーヴェンの人柄、芸術に関する考察によって、ゲーテはベートーヴェンに関心を抱くようになるのです。いずれにしても、ベッティーナはベートーヴェンにとって、ブレンターノ家の不思議なもう一人の象徴的女性であったようです。

(94年3月9日)
98年1月13日改編