2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

ボンのベートーヴェン・ハウスでの演奏会



Dr.ラーデンブルガーと園田高弘

ボン ベートーヴェン・ハウス館長 Dr.ラーデンブルガーと園田高弘

数年前、ドイツの新聞フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトウングに、ボンのベートーヴェン・ハウスを修復するためにお金が必要であると言う記事を読み、今までベートーヴェンには大変お世話になり、演奏会でも数多く弾いたことだし何とか修復改装の一部にでもしていただきたいと、東京での演奏会の収益を寄付した。

それが切っ掛けとなって、日本の音楽家や企業からも大きな金額の寄付が行われるようになり、またドイツの企業や世界からも寄付が集まり修復は立派に完成し、新しいベートーヴェン・ハウスがお目見えした。その私のささやかな行為を記念して、昨年、入り口の金属板に名前が刻まれて大変に光栄に思い、館長のDr. ラーデンブルガー氏に「ボンでもベートーヴェン・ハウスのために基金を集めるための演奏会をしましょう」と云ったことが実現したのである。

5月26日に演奏会は行われたが、現地には前日に着いていた方が何かと心配もないし、練習の予定もあると思い、一日前の25日朝10時半過ぎバーデン・バーデンの自宅を出てアウトバーンで一路ボンへ出発、3 時頃にはもうボン市内中心地にあるマルクトプラッツのシュテルンホテルに到着した。毎日目の前の広場には色々な市が出て頗る賑やかである。

一休みして、4 時半過ぎにベートーヴェン・ハウスにDr. ラーデンスブルガー氏を尋ね、引き続きホールでピアノを練習してみる。コンサート・ピアノはすり鉢状の狭いステージには一杯に感じられ、ピアノの響きがステージの奥の石の壁面に叩きつけられるように反響してくるので演奏していて息苦しい。ピアノはスタインウエイだ。あまり鍵盤のアクションは整調されていないまま放置されてるのか直ぐ狂いだすのはいささか気掛かりであった。それで演奏会のときには、ピアノをもう30cm客席の方に前にだすようにして、後ろの石の側壁から少しでも響きの跳ね返りを少なくしたら、中高音域の分離もよりハッキリしてきて低音もそれほど煩くは感じられなくなった。





19980526プログラム

この特別演奏会のプログラムはベートーヴェンの後期の三つのソナタ、作品109.110.と111.である。演奏会に先立って、聴衆に館長からこの演奏会を開くことになった経緯が説明され、またプログラムには私の履歴が細かに記載されていた。その中には以前63年と69年に数回このボンでは演奏会をしたことや、マックス・レーガー協会主催のレーガー生誕100 年の記念演奏会にも出演したことなど、私のすっかり忘却していたことなども事細かに報告されていた。

ベートーヴェンの生家の隣接のヘルマン・アプス・ホールでこうして演奏出来ると思うとやはり非常に緊張した。終了後に、ベートーヴェン・ハウスで記念のパーティーを開催してくれて、そこでドイツのバッハ・ゾリステン協会会長のヘルムート・ヴィンシャーマン夫妻に出会う。秋には日本公演に来日するとか。

また59年にベルリン・フィルハーモニーでデビューした頃、ベルリンの日独協会の会長であったツァッヘルト夫人が未だに健在でいて会いに来てくれた。現在ケルン在住で7 人の孫がいて曾孫も 2人いるとか、目を潤ませてその当時のベルリンの演奏会、ハンブルクの演奏会のことなど、私がすっかり忘れていた懐かしい思い出を語ってくれた。

久米特命全権大使夫妻など公務のご多忙の中に来ていただいたし、新しい日独文化協会の方々など、多くの人々にも会った。




翌日、再びベートーヴェン・ハウスを尋ねDr. ラーデンブルガー氏の好意により、ベートーヴェンがボン時代から死に至る最後まで親交があったDr. ヴェーゲラー家の親族達が長年にわたって大事にして保管してきて、つい最近の69年になって明るみに出た300 件ものベートーヴェン関係の文書資料が、このあいだの5月7日にベートーヴェン・ハウスに移管されたので、館長の説明を聴きながら見学させてもらった。

なかでも圧巻であったのは、医者Dr. ヴェーゲラーに宛てて書いたベートーヴェ
ンからの1801年の手紙があって、そのながで耳の疾患を訴えていること、これは有名なハイリゲンシュタットの遺書よりも 3ヵ月も前のことであるとの説明があった。

またボン時代の親しかった女性エレオノーレ・ブロイニングとの交流の手紙や、誕生日などの友情にみちた細かな品々を見ることができ、このエレオノーレは後に医師ヴェーゲラー夫人となったのだが、この女性こそは歌劇『フィデリオ』の中でレオノーレとして昇華されている存在であって、ベートーヴェンの生涯忘れえない人でもあった。

またヴィーンにいたベートーヴェン最後の頃の多くの手紙、その中には「ベートーヴェンは既に快方に向かうよりは死期が近づいている」ことを述べたもの、またその当時のベートーヴェンの経済的困窮を助けようとして、シントラーが口述した手紙にベートーヴェンがやっとまがりくねってサインをしているものなど、読む人の胸を熱くするものが多数あった。

またこの訪問の機会に特別にDr. ラーデンブルガーのご好意により、今度新たにベートーヴェン・ハウスに保管されることになった、作品101 のベートーヴェンの自筆原稿を目の当たり手に取って見ることが出来たのは震える程の感激であった。

そしてその中に、終楽章への移行部分には本当にtutto il Cembalo,ma piano と書かれていて、その意味はそれまでuna corda で演奏されていたものを、チェンバロのように即ち 3本線で、しかし p(弱く)で演奏することをベートーヴェンは示したのであると説明をうけた。

ともかくボンのベートーヴェン・ハウスの訪問は、何度尋ねても様々な疑問と対決出来て極めて収穫の多いものであることを今回も確信した。

1998年 5月26日 園田高弘