2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア



『郷土と音楽』

1996年10月15日 新聞協会全国大会においての記念講演 別府にて
 私は只今ご紹介頂きましたピアニストの園田高弘です。
 どうして、大分県で行われる全国新聞大会で、こうしてお話するハメになったかと申しますと、私は東京で生まれましたが、私の父母とも大分県大分市の生まれのキッスイの大分県人で、それで私も大分県人ということになっているからです。


西洋音楽発祥の地・大分

 ご承知のように、ここ大分県は『西洋音楽発祥の地』ということになっております。
 大分市の中心部、大分県県庁の近く、お城の前の公園にはフランシスコ・ザビエルの像と、合奏をする少年少女の像があります。私も、以前はそうしたものかと単純に深く考えもせず、像を感慨深く眺めておった訳です。
 大分県文化百年史という本がありますが、そのなかにも「洋楽発祥の地・大分」、「大友宋麟時代、府内に西洋の音楽が紹介された」と書かれていて、それによれば永禄4年、 (1561年)府内に15人編成の少年合唱隊が生まれたとあります。
 合唱隊はミサや式典の時、「アベ・マリア」など各種の聖歌を歌い、或いはビオラやフル−トなど楽器を演奏、府内のコレジョ(学校)では音楽は正課として(カリキュラム) として教えられていたと書かれています。

フランシスコ・ザヴィエル
 実は昨年の秋、亡くなられた作家の司馬遼太郎先生の追悼の記念雑誌を偶然に見る機会がありました。そこには先生の作品の一覧表があって、そのなかの「街道をゆく」というシリ−ズものについて、特に「南蛮紀行」と「アイルランド紀行」を激賞している紹介記事がありました。それが目に止まったので、早速「南蛮紀行1」を買い求めて読んだところ、そのなかにフランシスコ・ザヴィエルの名前が出てきて仰天したわけです。
 司馬遼太郎先生の文によれば、「ザヴィエルは1506年の生まれ、1552に没年。彼は今日の上智大学を設立したカトリックの団体であるイエズス会(ヨ−ロッパ流にいえばジェスイット派)の創立者の一人であり、日本に滞在すること僅か2年余りであったが大きな影響を与え、当時の日本について、ヨ−ロッパ世界への最初の真面目な報告者となった。彼は広東港外の小さな島で死んだ。ロ−マの法王庁ではその人格を追慕するもの多く、1622年聖人に挙げられた」とあります。

 もうすこし詳しく、平凡社の百科辞典を引いてみると、
 「スペイン人のイエズス会士で、日本キリシタン開教の先覚者、スペイン名はハビエルであるが、ポルトガル勢力圏で多く活動したためポルトガル名のザビエル(正しくはシャヴィエル)でひろく呼ばれている。フランス国境に近いピレネ−山脈のスペイン側のバスク人、ナバラ王国のパンブロナ付近のハビエル城に生まれた。父系母系ともに名門で、彼は第6子。1525年にパリに留学、聖バルバラの学校に学び、イグナティウス・ロヨラと巡り合い、心機一転、その門に入り修業に専心する。イエズス会創立に努めて、1540年正式にロ−マ教皇の勅許を得て、ポルトガル王、ジョアン3世の要請を受けて、選ばれてインドの教皇代理となり、1542年4月7日38回の誕生日にゴアに到着。以後インドの東西海岸地、セイロン、マラッカ諸島で超人的な伝道活動に入った。そのマラッカで、日本人アンジロ−(或いはヤジロ−)に会い、その人となりに感じるところがあって日本伝道を思いたった」とあります。

 ここのところで、司馬遼太郎さんはもっと詳細にザヴィエルが乗り込んだ船のアルバレス船長に日本人について書いてもらって、いくつかの項目を挙げています。それが非常に、日本人の性格をよく把握していると思うので、読んでみます。
  日本人は、傲慢で怒りっぽい。欲は浅く、はなはだ物惜しみをしない。
  他の国について知ろうとする切なる欲求がある。嫉妬を知らない。
  盗むことを憎む。貴人をたおせば、立派な騎士とみなされる。
  音楽・演劇を愛する。賭博をさげすむ。宗教心はつよい。
このように、アルバレス船長の言葉は伝えています。

 これまで、ザビエルがスペインのバスク地方の出身であるとか、パリでカルチエ・ラタンでアリストテレスの哲学及び神学を勉強していたことなど、まるっきり知らずにいました。しかも彼は敬虔なジェスイット派(イエズス会)の信者で真面目一徹で、日本に宣教に来るなどとは考えてもいなかった人物であったらしい。しかし、はからずもそれを説得するだけに生まれてきたようなロヨラという男がいたこと、そして、ザヴィエルはポルトガル政府から派遣されて、ポルトガルはあわよくば信仰を通して、日本を征服する目的の ためにはるばるやって来た、なんてことはまるっきり知らなかったので非常に興味が出ましたし、そのバスク地方には、現在もザビエル出生のお城があるということで、その紀行文の記事は大変に面白く読みました。

 さて、そのザビエルが日本に来た、つまり最初長崎の出島に来て、大友宋麟を訪ねて大分にやってきたのが1550年頃。
 もう一度、平凡社の百科辞典によれば「1549年6月、アンジロ−を案内人として、 司祭トルレス、修士フェルナンデスその他と共にマラッカを出発、8月15日に鹿児島に上陸、領主島津貴久(たかひさ)に謁見、布教を始めたが仏教徒の妨害を受ける。それで 、京都に上って国主から全日本布教の許可を得ようと考えて上京、ところが当時の天皇の 権力は殆ど無力であることを知り、いったん平戸に帰り、山口にひきかえしてから大内義隆を訪れ、更に豊後府内(大分)に大友義鎮(よししげ)宋麟を訪ね、そこで活発に布教した]とあります。

 その、大友宋麟については、百科辞典にはこうあります。
 「大友義鎮(よししげ)戦国大名、大友義艦(よしあき、あきら)の嫡子。落飾して( そうりん)と号する。家督相続の争いにより、父と庶弟は家臣に殺され、1550年(天 文19年)に家をついだ。北九州6か国にわたる大所領地のほか、日向、伊予にも武威を 示し、大友氏の全盛期をもたらした。領地内においては1552年(天文21年)19条の政道条目を定め、管内の諸領主を全て家臣団に組織して戦国大名の体制を整えた。キリシタンに帰依し、1582年(天正10年)には近隣の大名、有馬、大村氏と共に 、ロ−マ教皇に使節を派遣し、国内にもその学林を設けた。また京都から名ある医師や文人を招き、文化の興隆をはかり、明(みん)、ポルトガルなど積極的な貿易を行い、府内 (大分市)を中心とする豊後は当時九州における布教と文化の中心地として栄えた」とあります。

 ザヴィエルの日本と日本人にたいする期待と信頼に反して「布教の成果は上がらず、それならば日本をキリスト化するためには、日本人の尊敬する中国人を説教教化すべきであ ると、ひとまずインドに帰り、布教の方針を立てなおして、人物の配置を新たにして中国開教の旅にでかけた。1552年4月ゴアを再び出発、8月末広東港外上川島に着く。当時、中国は鎖国して外国人の上陸をゆるさず、ザヴィエルはここで密航の機会を待ちつつ 、熱病にかかり、12月3日に没した」とあります。

その時代の音楽
 そこで実は以前から考えていたことですが、いま公園にザヴィエルが指導して少年合唱隊や楽器を演奏するような銅像がありますが、一体その頃、何を合唱し、何を演奏したのだろうかと言う素朴な疑問がありました。

   実は音楽といえば、クラシック、つまり古典派の作曲家達の作品の演奏に明け暮れしている私のようなものは、すぐハイドン、モ−ツアルト、ベ−ト−ヴェンという概念が心のどこかにあるわけです。その一番古いハイドンでも、1732年生まれ。ザヴィエルの時 代とは2百年の差があり、その前となるとバロック時代。とすればバッハとヘンデルの時代、それでも二人とも生まれた時代は1685年。それでもまだ百年以上の差があります 。その前となると、それはルネッサンスの時代のこと。だとすると一体どんな音楽を日本 にもってきたのか。
 音楽史を調べても、一番有名なルネッサンス時代の音楽家モンテヴェルディ−は、1567年生−1643年没で、ザヴィェルはこれよりも更に前の時代。それよりも前のルネッサンス時代の作曲家となると、有名なのはガブリエリが1510年生−1586年没、その前のパレストリ−ナは、1525年生まれ−1594年没で、僅かに現在知られてはいますが、それも当時としてはイタリヤで記録されているくらいです。

 ルネッサンス時代の音楽は、最近になって研究が進みかなり世に紹介されるようにはなりましたが、肝心の楽譜は殆ど残っていないのが実情です。
 そのルネッサンス時代の音楽で、一般世間に流布していたもので考えられるのは、マドリガル、トルバドゥ−ル、ミンネゼンガ−等、いずれも世間で、その頃の世俗的な恋愛詩を歌ったもののが中心となっているわけです。

 ちなみに、マドリガ−ルというのは、音楽辞典によれば、14世紀から16世紀に非常 に栄えたイタリアの声楽音楽で、詩の内容は田園詩や恋愛詩が多く、初期のものは二声楽 曲が多く、三声楽曲がそれに続いて歌われるものです。
 またトルバドゥ−ルというのは、南フランスを中心とする中世の詩人兼音楽家のことで、ドイツのミンネゼンガ−とともに中世の世俗歌謡をつたえ、吟遊詩人とも言われます。なかでも トルバドゥ−ルの音楽は楽譜に残された最古の世俗歌謡。高貴な女性への憧れや恋情思慕 の気持ち、あるいは十字軍の遠征や聖母マリアの賛美を歌ったことに始まり、十二世紀中頃から中世フランス文学の黄金時代とあいまって全盛期を迎え、教養ある市民層へも広が っていきました。

 ところでキリスト教布教のためといえばすぐ賛美歌を考えるのですが、その賛美歌は実はかなり最近になって18、19世紀になってから今日のような形をとったもののようです。そのかわり、多分古くから伝わるグレゴリヲ聖歌がその役目を果たしていたと考えられます。ロ−マ・カトリックでグロリア・パトリ(栄唱)やクレド(使徒信経)と並んで 、もっとも良く用いられる(天使祝詞)です。
 ルカ1の28の(天使の慶祝)と42の(エリザベ−トの祝辞)が結合されたもので、14世紀に(イエズス)の名が、15世紀に(罪人なるわれらのために、いまも臨終の時も祈りたまえ。ア−メン)の祈願文が加えられた。多分、これですね。

 いずれにしてもキリスト教徒の布教活動、とくに僧侶の方達は非常に発明発見熱心な人々で、お酒、ワインにしろ、シャルトル−ズ、ベネディクティ−ン等のリキュ−ルにしろ 、チ−ズにしても僧院での工夫発明であったという実績があります。
 したがって日本での布教活動にも創意をふりしぼって、その当時日本の巷にはやっていた、むしろ卑俗な歌や、民謡、恋の歌を巧みに取り入れて、合唱合奏したことが考えられるのです。そうでなければ遠いヨ−ロッパのキリスト教を、音楽を交えて民間の関心を集めて説くことは出来なかったのではないかと思うわけです。

 そこで銅像に見られる楽器についてですが、ここに見られる弦楽器は何であったろうかという疑問が残ります。実はヴァイオリンやビオラのような楽器は、音楽史によると、ヨ−ロッパでは16世紀 後半になって、やっと出来てくるわけです。
 勿論、有名な楽器製作者であるアマティ一族は1596年から−1684年。
 ストラディヴァリ一家は1648年以降−1737年、いずれもイタリ−のクレモナという町で制作を始めたわけで、ザヴィエルの頃にはまだ存在していません。

   それ以前の楽器となると、ヴァイオリンの前身である古代ギリシャから伝わっていて、 これが初期中期にも存続していた、リラ、(ロ−タ、或いはロッタの名前で知られていた )撥弦楽器(はつげん)5本乃至15本の弦、もっとも普通に使用されたのは7弦で、或いはギタ−、マンドリ−ノ、或いは竪琴に似たキタラなどの類ではなかったか、と想像するのです。とすると、それを習得演奏することはとても簡単なことではなくて、それを教えた教師がいたに違いないと思われます。
 ザビエル自身は音楽も演奏したのかも知れないとしても、或いは長崎平戸から教師として司祭か修士をつれてきたのではないか。つまり日本で楽器を作ることは不可能であったであろうから、楽器の伝達があったとすれば、その時に楽器も持って来たのではないかと思うわけです。しかし楽器に関しては何も残っていません。

 三味線という日本古来の類似の楽器があったかなと、調べてみれば、これがまた三弦として中国から沖縄を経て日本に伝来したのが1562年、最初琵琶法師達によって使用されその後段々と改良され、現在のものに近くなったのは比較的新しく江戸時代のことであるという記録があります。
 いずれにしても日本と音楽、すなわち西洋音楽との接触はこのようにして、1550年代のこんなに早い時期に始まったのですが、その後まもなく徳川幕府のキリシタンに対する弾圧と日本の鎖国政策によって、まったく痕跡を残さず消えてしまったように思えるのです。過ぎ去ってしまえば、いくら目を皿のようにして古文書を探しても、郷土の歴史のなか の一点として、ぼんやりとした史実として残ったに過ぎないことになりました。450年も前の大変ロマンティックな夢のような話です。


モーツァルトのオペラ『魔笛』そしてハイドンと大友宋麟

モーツアルトの『魔笛』
 さて、皆さんはオぺラをご覧になる機会がおありでしょう。
 モ−ツアルトの作品に『魔笛』というオぺラがあります。初めてこのオぺラを見ると話の筋はまことに複雑で、交錯し、ちぐはぐで、場面のつながりは少しも論理的に運ばれていないように見えるので、観客は途方に暮れてしまうのです。

 その筋書というのは、「日本風の狩りの衣装をまとった若い王子タミ−ノが、蛇に追いかけられて出てくる。夜の女王の使者であるヴェ−ルをかぶった三人の女たちがその怪物を殺し、気絶している王子の美しさに見惚れる。道化役の鳥刺しのパパゲ−ノが登場。タミ−ノは気絶していたので、彼が命の恩人と思い込む。パパゲ−ノは恩を売って自慢する。これを聞いて、三人の使者は彼を咎める。彼女達は、夜の女王の娘パミ−ナの肖像画をタミ−ノに渡す。パミ−ナは悪者ザラストロの虜になっているのである。タミ−ノは、 パミ−ナの美しさに恋の炎を燃やし、彼女の救出を約束する。使者は彼に魔法の笛を渡し 、パパゲ−ノには一振りの魔法の鈴、グロッケンシュピ−ルを与える」とこのようにしてオぺラは始まります。
 そして、次いで夜の女王の出現。有名な高音のアリアを歌います。そして色々のドラマを経て、最後の第二幕第三景、神殿の洞窟のなかで、「パミ−ナを従えたタミ−ノは、魔法の笛を吹いて、水と火の試練の勝利者となり、彼は愛する女性を得るにふさわしい人物となる。『夜』の勢力は敗北する。『太陽』の讃歌でオぺラは幕を閉じる」という筋書きです。

フリー・メーソン
 『魔笛』は『ドン・ジョバンニ』とならんで、モ−ツアルトの最大傑作といわれるオぺラですが、近年になって作品について色々の「読み」が言われるようになりました。今の文章も、ジャック・シャイエという人の『魔笛』秘教のオぺラという、研究書からの引用 です。

 ところで、モ−ツアルトがフリ−・メ−ソンの会員であったことは周知の事実です。それもかなり忠実懸命な会員であったものらしく、色々な人物を勧誘してフリ−・メ−ソンに入会させさたりしています。先生であったハイドンもその一人です。
 モ−ツアルトの死の直後、彼に捧げられたフリ−・メ−ソンの追悼演説には、次のような言葉がありました。それによると、「彼はわれわれの結社の熱心なメンバ−であり、同志愛の持ち主で、気質は穏やか、徳行と慈愛の信奉者であり、同志を自分の才能でもって助けられるときは、いつも心底から喜んでいました。これが彼の性格の特徴であります」 と述べられています。
 フリ−・メ−ソンと言うのは、キャスリン・トムソンの書いたモ−ツアルトとフリ−・ メイソンという本に、詳しく書かれています。

 辞典によると、イギリスでは、普通慈善的な目的の追求を趣旨とする、大変立派な男達の集団と見なされ、一般的にいえば、その思想は、代々受け継がれた諸特権を有する旧来の土地貴族たちに対して、ブルジョワ達、商人、手工業者、専門的職人の思想を代表したものであったとあります。
 フランスには1725年ころに導入され、最初は反教権的でも無神論的でもなく、王族を含む特権階級の支持さえも受け、流行の思想になりました。
 フランスでは大革命の時期には約十万のフリ−・メ−ソンがいたと概算されています。 その中には、ヴォルテ−ル、ダランベ−ルのような人物もいて、彼らが掲げた目標の一つは「各国のすべての同志たちが、学芸と有益な諸科学に関する大百科辞典のための資料を一致団結して集める」ということがありました。すなわち、かれらの思想がフランスの百科全書派や啓蒙主義者達の思想に関連していることは明らかでした。

 一方、ドイツにはフリ−・メ−ソン主義は1730年代に入ってきたようで、そのころの18世紀のドイツは、多数の小国家と自由都市に分断されていて、小国家は殆ど絶対君主が支配していました。当時のドイツは政治的にも経済的にも後進国であって、特にカトリッ ク教徒の多い南部では、教育は完全に教会の掌中ににぎられていて住民の大半は無知で迷信深かったし、その方が教会にとっても都合がよい、と考えられてもいたのです。
 しかもドイツの貴族文化は浅薄で古めかしく、フランス宮廷の影響に支配されていました。啓蒙主義の思想がドイツに入って来た時、とりわけプロテスタントの地域において、熱狂的な歓迎を受け、レッシングはその思想を表明した最初の人物の一人でありました。「疾風怒濤の時代」シュトルム・ウント・ドランクとして知られている文学運動の代表者達、ゲ−テ、シラ−、ヘルダ−なども結社に加わっていたようです。ベ−ト−ヴェンもそうであ った、という話。もっともそのころ彼はヴイ−ンにいましたが。

   オ−ストリアにフリ−・メ−ソン主義を導入したのはフランシス一世で、1731年にウィ−ンに最初の支部が設立されました。
 ドイツでのフリ−・メ−ソン主義は次第に二つに分かれ、今日では薔薇十字会が右派を 代表し、啓明団が左派を代表すると言われています。そしてこのグル−プは南部ドイツと オ−ストリアでとりわけ有力であったというわけです。啓明団(明かりを啓示する)の会員は数の上ではさほど多くなかったのですが、時代の道徳 思想や社会思想を形成したという点では、強大な勢力でした。ドイツでの支持者たちの間にはゲ−テやヘルダ−なども いたわけです。
 オ−ストリアではモ−ツアルトの友人であり後援者てあった、閣僚のゾンネンフェルス 、著名な鉱物学者で支部の創設者であったフォン・ボルンなどがフリ−・メ−ソンとしていたわけです。

 モ−ツアルトはこのようにしてフリ−・メ−ソンの啓明団に入っていたと推測されるのです。推測されるというのは、フランス革命後、フリ−・メ−ソン達こそが 、革命の真の立役者ではなかったかという疑惑がうかび上がり、フランスを始め、各国に弾圧が広がり、その際に沢山の記録が破棄されたこと。オ−ストリ−でも、モ−ツアルトの妻コンスタンツェが、夫がフリ−・メ−ソンの会員であったことにふれ資料は、処分してしまったことが知られています。

 しかしモ−ツアルトがフリ−・メ−ソンとして、自らの入社式(イニシエ−ション)に進むまえに、啓明団の会合に列席していたことを示す証拠として、彼の名前を挙げている文章は残されているのです。この啓明団の会合はザルツブルク近郊のアイゲンというところ、人里離れた美しい洞窟で行われました。今日では「啓明団の洞窟」として観光の名所にもなっているそうです。
 この洞窟、急流の滝、高い木々、険しく切り立った岩山という人を畏怖させる神秘的場所こそ、モ−ツアルトのオぺラ『魔笛』のト書きにあるものそのものであるということになっています。

再びモ−ツアルトのオぺラ『魔笛』
 ところで、モ−ツアルトのオぺラ『魔笛』はフリ−・メ−ソンの儀式をかなり具体的に表しわしていると言われています。そしてこれは本来、公開されるべきものではなく、モ−ツアルトの行為は言わばロッジの信義に悖るものとされ、モ−ツアルトは弾劾されたと いうこと、そしてそれがもとで、日頃からモ−ツアルトの信望を妬んでいた同業の作曲家のサリエリによって毒殺されたのだ、という話がモ−ツアルトにはついてまわるのです。
 それはそれとして面白いし、話としても辻褄が合うと思っていました。
 ところで、問題はその『魔笛』のオぺラの開始部分ですぐ、タミ−ノが山から転がり逃げてきてて、おお、助けてくれと叫ぶ場面があります。
 オぺラのオ−ケストラの総譜をみると、そこにモ−ツアルトによって、「日本の狩りの衣装で」というただし書がかかれているのです。
 そこで、不思議に思うのは、何故、モ−ツアルトは日本のと書いたのか。どうしてモ−ツアルトは日本を知っていたのか、ということです。

 台本を更に深読みをしてみると、その「狩りの衣装で」とは別に、道化のパパゲ−ノは 、鳥刺しという狩りうど名称で、鳥の羽で覆われたような服を着せられて出てきますが、 それはまさしく日本の蓑を羽織ったような出で立ちなんです。

 モ−ツアルトは作曲家として常に色々の新しい素材を貪欲に探究していたので、いろいろの外国の趣向を作品のなかに反映させていたことは事実です。当時のヨ−ロッパ人の地理的概念は、異国情趣といっても、中近東のトルコくらいまでで、ヴイ−ンではトルコ・ コ−ヒ−などが異国情趣の飲物としてはやっていたり、モ−ツアルトがトルコの騎兵隊のマ−チに魅せられて、そのリズムを取り入れて、ピアノ・ソナタの曲に終わりの楽章にトルコ行進曲を付けて書いたりしています。従って、トルコよりさらにずっと東、アジア、特に日本のことなどモ−ツアルトが、ど うして知ったのであらうか、というのが、素朴な疑問です。
 そこで私の推測は、どうもモ−ツアルトはそれを何かで見て知っていたのではないかと思うのです。

 オぺラ『魔笛』の台本はシカネ−ダが書いたことになっていますが、ジャック・シャイエと言う人の研究書によれば、モ−ツアルトと数人の合作です。
 シカネ−ダはもとアウフ・デァ・ヴィ−デンの劇場の支配人で、元は旅回りの一座の座長兼役者でもあったので、自らも役者として立てる人間で、パパゲ−ノの役柄を自分に割り振って演じたようです。シカネ−ダもたしかにロッジの同志でした。しかし彼が台本のすべてを、フリ−・メ−ソンの儀式を念頭において台本を構成したとは考えにくいのです 。このほかにも、もう一人の脚本家の名前が上がっています。それは前に名前を挙げた、モ−ツアルトの友人、イグナッツ・フォン・ボルンと言う人物。彼は「啓蒙主義」の擁護者の一人で、フリ−・メ−ソンのロッジの最高位にまで昇進した人物です。その他にも、もう一人、つまり4人の合作であったようです。
 しかし、モ−ツアルトはこの場面はこれこれこのようにしたいと、自分の考えの音楽について相談をしている筈です。とすると、モ−ツアルトは何時日本のことを知っていたの か、ということになります。

ミヒャエル・ハイドンと大友宋麟
 モ−ツアルトがまだ少年時代のザルツブルグにいたころ、サルツブルクの教会にミヒャエル・ハイドンという作曲家、指揮者、兼オルガニストがいました。このミヒャエル・ハイドンは、有名な作曲家ヨ−ゼフ・ハイドンの弟で、彼も色々な作品を残しているのです。このザルツブルグで、モ−ツアルトは教会に出入りして彼の影響をいろいろと受けていたと推測されるのです。
 モ−ツアルトの初期の交響曲はミヒャエル・ハイドンのものと酷く似ているものがありますし、またミヒャエル・ハイドンの作品は、モ−ツアルトのものかと思う作品があります。そのミヒャエル・ハイドンの作品表を見てみると、オラトリオとして、それも大友宋麟に因んだ宗教劇があるらしいのです。
 ミヒャエル・ハイドンの作品は、大部分は紛失していて、現在は発見されて残っているのは僅かです。
 しかし、それが記録の通りだったとすると、ミヒャエル・ハイドンは大友宋麟に関して 、何か知っていて、それを宗教劇オラトリオにした。そのことをモ−ツアルトは彼の作品を通して、あるいはミヒャエル・ハイドン自身から直接何かを聞いたと思われるのです。
 そして、その何かは日本のこと、例えば大友宋麟がロ−マの教皇に使者を送った時の日本人の出で立ちの衣装を、ヴイ−ンかザルツブルクの司祭から聞いていてそれをオラトリオとして書いたという可能性は非常にあります。
 それとも日本のことそれも神話についてではなかったかと、想像をたくましくするわけです。というのも、モ−ツアルトが直接フリ−・メイソンの儀式のことをオぺラの台本の下敷きとして心に描いたとしても、その舞台設定があまりにも、日本の神話、天照大神や天の岩戸やに類似しているのです。それをモ−ツアルトは見たか知ったかしていた、ということになります。
 こうして勘繰って考えると、モ−ツアルトのオぺラ『魔笛』は、かりにフリ−・メ−ソンの儀式を念頭にして書かれたものと考えても、それだけではないと思うわけです。

 王子パミ−ノが脅えて山から逃げ延びてくるのは大蛇に追われてくるところで、日本の神話によれば、大蛇はやまたのおろちのことではないか、天照大神は、夜の女王として置き換えられたのではないか、と思うわけです。
 こうして、日本はもしかすると大友宋麟を通してモ−ツアルトにまで、たしかな接点を 残したのではなかろうか。モ−ツアルトのオぺラ『魔笛』の日本の狩りうど装束でというト書きは、モ−ツアルトと日本が何かの形で接点があったという確かな痕跡ではないかとこれは何度考えても不思議な興奮する話です。


今世紀そして未来へ

滝 廉太郎
 時代は今世紀、1900年前後まで一気に移ります。
 明治5年学制が公布され、教科の一つに『唱歌』が取り入れられたが、学校で教えようとしても先生がいない。まず音楽教師を養成しなければ、というので文部省に「音楽取調 掛」が設置された。これが日本の本格的な音楽教育の始まりであります。
 これが後に東京音楽学校となり、東京芸大となるわけでその「音楽取調掛」出来たのは明治12年10月のことです。竒しくもこの年1879年の8月24日に滝廉太郎は生まれています。
 滝廉太郎は1896年に東京音楽学校を卒業、そして、1901年6月にドイツに留学、ライプチッヒ王立音楽院に入学。そこで初めて本場の西洋音楽との接触があったのですが惜しくもまもなく病気となり1902年10月帰国、故郷の大分で25才で死去。

 黎明期のピアニスト、作曲家として嘱望されていながら消えてしまう運命となったわけで、これが日本の楽壇にとってどんなに残念な損失であったかは、今頃になって私などは感じているわけです。なぜかならば、滝廉太郎はライプチッヒの王立音楽院で第一級の教師に就いていたわけで、作曲をヤ−ダスゾ−ンに、ピアノをタイヒミュラ−に師事したのです。
 作曲のザロモン、ヤ−ダスゾ−ンはブレスラウ生まれのユダヤ系ドイツ人。ヴァイマ− ルで、当時ヨ−ロッパに君臨していたピアニスト、フランツ・リストに学び、ライプチッヒで王立音楽院で教鞭をとり、理論家のフ−ゴ−・リ−マンとならんで作曲学の基礎となる和声学、対位法、楽式論など多くの優れた著書をまとめ、それらは各国語に翻訳され、 西洋音楽作曲論の難攻不落の牙城を築く業績を残したた人物であったわけです。いづれもライプチッヒの王立音楽院にいたのです。
 一方、ピアノを学んだタイヒミュラ−教授も、優れたピアニストであり、リストの弟子で、現在でもハイドンのピアノ・ソナタ全集の監修などで知られています。

 また滝廉太郎の留学していた時期は、ポ−ランドの国民的英雄であったパデレウスキ−のピアニストとしての演奏、指揮者フルトヴェンクラ−の前の伝説的アルト−ル・ニキッシュ、或いはヴァイオリンのヨ−ゼフ・ヨアヒムなどがドイツでは活躍していた時期であり、それについては情報や実際の演奏を聞いたりした筈ですが、滝廉太郎は留学してまもなく病魔に侵されたため、止むなく帰国することになりつづいて死去したことで、当時のヨ−ロッパの音楽事情については、日本には殆ど情報が伝わっていないのです。これはなんとも痛恨の極みです。このようにしてまたしても、日本にとっての得難いチャンスは歴史の一点として失われました。

父・園田清秀
 しかし、大分における音楽の精神的伝承は全く途絶えたわけでもなかったのです。
 それは私の父、園田清秀でした。父の生まれた年は1903年、滝廉太郎の死んだ翌年のことです。

 父のことについては、大分県文化百年史のなかに詳しく書かれていますが、初め、市内にあったメソジスト教会のオルガンの響きに魅せられ、オルガニストになりたいと思ったのが事のおこりのようです。
 そのころ家業は大分市内の中心部、竹町の一角にあって旅館業を営んでいて、大分の連隊などがあって、旅館業は大層繁盛していたようです。その長男がこともあろうか、音楽をやる、オルガン弾きになりたい、と云いだしたので、祖父は勿論反対し大いに困惑したようです。しかし、父のたっての願い「一度だけでよいから、音楽学校を受験させてくれ。それでだめならキッパリと諦めて家業を継ぐから」と言われ、祖父は根負けして受験を許したのだそうです。

 さて、上京して東京音楽学校の受験することになって、当時はオルガン科と言うのがなくて、それでピアノ科を受けたということらしいのです。そういう嘘のようなまことが当時の貧困な日本の音楽教育事情でした。そんなことで、当人は勿論合格の予想はなかったのか、大分へ帰郷の道すがら、京都などで遊んでいたらしいのです。その間に、合格通知の方が先に大分に届いていて、今日、出発しなければ、入学の手続が間に合わないという日に、大分にブラリ帰ってきたとそうです。
 父は音楽学校に入ってからは、ハイカラ蛮からであったのか、袴に下駄をはいて、デッカイ目覚まし時計を下げていたなんてことも子供の時に聞いた覚えがあります。しかも、晩学の父は猛烈に練習したらしく、成績抜群で卒業したようです。
 ショパンに黒鍵の練習曲という右手がピアノの黒鍵だけを弾く難しい曲がありますが、それを毎朝早朝に練習していて、それによって朝私は目が覚めて、うとうと聞いていた子供の時の記憶があります。父は猛勉強したんでしょう。

 そして父は卒業した後、どうしても一度外国にいってこの目で耳で音楽を確かめたい、 という願いがあって、それでフランスに行き、そのころフランスを代表する若手のピアニ スト、ロベ−ル・カサドジュに師事し二年間遊学したわけです。
 当時の海外旅行は船旅で、神戸からフランスのマルセイユまで6週間はかかったようです。それで親族が集まって水杯で送別の宴をした時、父を可愛がっていた叔母が「清秀、ヨ−ロッパには月があるんじゃろうか」としんみりと云ったというのです。すると父はすかさず「ある、ある。ただし裏側から見るんじゃ」といって座をほぐし、皆はその答意即妙に感心したと言う話を子供の頃に何度も聞かされました。

 さて、ところが父はヨ−ロッパに渡って音楽を見聴きしてみると、自分たちが苦労して勉強した曲などは、そこいらの子供はもっと上手に弾いているという現実に非常なショックを受け、そこで音楽は「早期教育」が絶対必要であると痛感したようです。
 そのことと、ヨ−ロッパ人は音が皆な判る、曲の調子が判ることにショックがあったのか、そこで「絶対音感早期教育」を考え、家に手紙を送り、子供にこれこれの手ほどきせよという指令により、いわば私がその実験第一号となったわけです。
 音楽の早期教育はいまや今日現在では当たり前のこととして、日本の音楽教育は行われていることです。

 父は数え年33才の若さで、癌で死去しました。私が8才の時でした。
 しかし、この頃までには私の父の方針に共感する多くの友人達がいて、その方たちの絶えざる激励と援助、監督のもとに私は勉学し成長していったのです。
 以後のことは、私が死んでから何処かの本に、書かれることで省略させていただきます。(笑い)

 さて父の時代の頃から、日本に於ける洋楽の発展の歴史も『百花繚乱』とまではゆかなくても非常に豊かになり、この郷土大分からは奇しくも、沢山の音楽家が輩出しています。テノ−ルの藤原義江は1898年下関に生まれましたが、少年時代を大分で過ごしたと いう関係で、藤原義江は大分で良く演奏会を行ったらしい。
 また、丁度その同期の音楽学校の生活であったために、日本初めての世界的プリマドン ナのソプラノの三浦たまき女史の演奏会も度々おこなわれました。
 そして現在も二期会の大御所であるバリトンの中山悌一氏。不幸にも、早く亡くなられた故人立川澄人氏。また作曲家としてはこれも故人の清瀬保二などが大分から輩出していたわけです。

大分ピアノ・コンクール
 大分ではもう10数年まえから平松知事の肝入りで、県を挙げて音楽文化の向上に努め 、県民のみならず、将来は広くは大分の地を発祥として全国津々浦々まで、日本の音楽芸術文化へ対する関心士気を高揚し、それが生活にも浸透するように、また若い才能ある音楽家の発掘のための「園田高弘賞ピアノ・コンク−ル」と、「大分芸術週間」と名を打った音楽会を企画してきました。

 コンク−ルを始めたときは、県民のなかのピアノを勉強する人達を奨励、激励することから始められ、次第に日本全国に規模は拡大されました。また数年前からは日本の近隣諸国、韓国、中国、ソヴィエトを含む規模までになりました。
 これは将来、ショパン・コンク−ル或いはチャイコフスキ−・コンク−ルのように国を代表する世界的なコンク−ルとして発展させたいという、大きな夢を持って始めたことです。この間、コンク−ルの課題、選考方法、実施の方法も検討して充実させ、世界の水準にまで拡大させる準備も出来ています。
 コンク−ルのパンフレットも毎年世界の名だだる審査員に発送して、少しづつ関心と参加を呼び掛けてきました。幸いなことに、この大分のコンク−ルに関しては世界的に非常な関心があり、そして相応な評価を得ていて、課題、選考方法、実施の方法などもピアノ・コンク−ルの一つの基準となっている位です。
 そこで願いは、これらがまた過ぎ去ってしまえば、それが歴史の上での単なる一つノ点 として残るのではなく、着実に持続して実を結ぶことを願ってやみません。

 思えばザヴィエル以来、大分の地にはこれだけの過去の精霊が満ちていることなので、それがいつかは、将来に渡って実りをもたらすものであって欲しいと願うわけです。
 それには、郷土の人間は勿論のこと、音楽に携わるものは勿論のこと、日本の文化に関心を持つ一人ひとりが、先人の努力を大切にしてゆかなければならないと思うわけです。

 実は、この夏北イタリアのボルツァ−ノという町で、ブゾ−ニ−・コンク−ルがありました。イタリアの生んだ今世紀初めに活躍した名ピアニスト、ブゾ−ニを記念して毎年開催されるこのコンク−ルは、ヨ−ロッパのなかでも極めてハイレヴェルのコンク−ルで、ブ ゾ−ニ−がとりわけ得意としたリストの作品を沢山演奏しなければならず、若手ピアニストの登龍門として世界からの関心を集めています。
 今年の応募申込者は158名、実際の参加者98名。そのうち外見から判断して、日本人は30名位、韓国は10名位、ほか中国人、台湾人など、東洋系が約半数はいたようにみうけられた。というのも予選の段階では国籍も名前も一切公表されないことによりそう判断するしか無かったわけです。
 予選選抜は非常に厳しく、いきなり27人に絞られました。その中に日本人は7人残っていました。そしてそのうち4名は大分の園田高弘賞コンク−ルの入賞者だったので躍り上がって喜びました。しかしその後は日本人は審査員の標的にされて、残念ながら6位に一名残っただけでした。
 しかし、確かに今や日本の音楽家たちは世界の注目を集める水準まで上がりました。そこで、今我々音楽家が必要とするのは、地元の温かいご支援であり激励です。

 しかし、残念なことには、日本国内の方へ目をむけてみれば、どこもかしこも外国の出稼ぎ音楽家に溢れていて、あることないことについてあらゆる賛辞を惜しまず、いい加減なおべんちゃらにのせられて、喜んでお金を稼がれている現状は少しも変わっていません 。日本ほど法外なギャラを払ってくれる国はどこにもないので、これは本当に嘆かわしいことなのです。
 これをなんとかしなければ、日本の音楽家たちの日本での活動の機会はどんどん狭められてゆくことになるのです。そのことについての地元での認識を喚起することがこれからの課題でしょうか。そうしてこれまでの大分での先人たちも含めた努力が、過ぎ去ってしまえば、また単なる一つの点になってしまったようなことがないことを願うのみです。

 ながいこと御静聴を感謝します。(終わり)

園田高弘