少年時代
夏の午後は、学校から帰るとトンボを取りにいく。オニヤンマとりでは名人だった。駆けっこもよくしたし、早かった。 ……幼いころの記憶には、母の静子も登場する。アップライトのピアノの前には僕。母が奏でる和音を「ドミソ、ドファラ、シレソ」と間髪を入れず答える。……今日では当たり前となっている早期音感教育である。父はその大切さをパリで悟った。独自に考案した教育法を留学先のパリから東京の自宅に手紙で書き送り、母が文面にもとづいて僕に手ほどきをした。母は……東京では小学校の教員をやっていたので、教育や芸術に理解があったのである。
父のこと
父はパリから帰るとき、当時ヨーロッパで出版されていたピアノの楽譜の主要なものすべてを、当時で二万円相当の金をだして大量に持ち帰ってきた。だから僕の練習のための楽譜は山のようにあった……帰国後の父は、自分が胃がんにかかり、早晩死ぬことを悟っていた。それでも4年ほどは命を保ち、闘病生活と並行して子育てに全力を尽くした。ピアノを一生懸命教えてくれたし、よく伴奏もしてくれた。……体が弱っても僕に弾かせ、自分はソファに横たわったまま聴き、何だかんだと言ってくれた。……なによりも音楽家としての遺志を伝えたいと思ったのだろう。
レオ・シロタ先生
父が(僕のために)最適の指導者と当たりをつけたのが……レオ・シロタだった。シロタ先生はキエフで生まれたユダヤ系ロシア人。……大ピアニストで作曲家のフェルッチョ・ブゾーニの愛弟子となった人である。 僕の音楽家としての基礎的な力は、父が種をまき、シロタ先生が開花させたと言っていい。……先生はクレッシェンドではピアノが揺れるほどに、フェルテッシモでは顔が真っ赤になるくらい集中して、ピアニッシモでは鍵盤をなでるようにして歌わせた。僕はその様子を見ながら、「そうか、リストの曲はピアノが揺れるみたいに弾くんだ」と、体感的に学んでいったのである。
パリで師事したマルグリット・ロン女史について
ロン先生に教えられた大きなものの一つは、(シロタ先生の、ヴィルトゥオーソ型の弾き方とはちがう)フランス流のタッチ、音づくりだった。……ヨーロッパに渡って最初にフランスで学ぶことができたのは、僕にとって非常に幸いなことだった。フランス流の音楽へのアプローチ、エスプリの重要性、色彩感といった感覚的なものに初めて目が向いたのである。
パリで聴いたフルトヴェングラ−の演奏会
彼(フルトヴェングラー)の凄さは、音楽というよりも、自然現象ともいうべきあの独特の響きだと思う。……演奏というものには、音をどのようにならべるか、強弱やリズムがどうかといったことを超えた何かがある。そこに関心が向かない限り意味がないということを思い知らされた。地の底から沸き上がる音楽、ドイツ語でいうウアムジーク(根源的な音楽)の意味を、フルトヴェングラーほど具体的に示した音楽家はあとにも先に存在しないと思う。
カラヤンについて
(1954年当時のカラヤンには)後年「帝王」と呼ばれて権勢の限りを尽くす片鱗はまったくなく、実に気さくなお兄さんといった風情だった。……カラヤンの指揮でピアノを弾くと、流線型のモダンな機械がそばで動くような感じがした。演奏会が終わると一言、「おまえ、ヨーロッパに来い」という。日本なんかに留まっていないで、ヨーロッパで活躍しろという励ましだったのだろう。
ベルリンで
……(僕は)日本人として特に変わっていたわけではないと思うが、あるとき「園田はサムライだ」と言われたことがある。のちのち、実に多くのドイツ人が同じ感想をもらした。
1959年ベルリン・フィル・デビュー
ドイツの首都で、しかもピアノ協奏曲の最高峰と言える「皇帝」をベルリン・フィルと演奏する、その重圧は大変なものだった。しかし結果は大成功で、新聞には「一人の日本人がドイツ人に対し、ベートーヴェンをいかに弾くべきか示しに来たのではないかと、我々は戦慄を覚えた」と凄い批評がでた。……この演奏会での成功は、その後の僕の音楽人生を決定的に方向づけた、まさに天王山だった。
自分が受けた教育
僕のように日本でシロタに学び、パリでロン、ベルリンでロロフと、さまざまなピアニズムにふれた経験をもった演奏家はむしろ異色だったと思う。……僕はもともと、一つの流派に忠実であることはまちがいとは思わなかったが、偏ってはだめだという意識をもっていた。ドイツにはドイツの、フランスにはフランスの立派なピアニズムがある。我々日本人は、そのいずれも自分の血の中にもっていない。本来、自分の中にないものを追求するには、むしろ意識して多角的に学んでいかねばならないと思う。
音楽家の教養
(ドイツで知り合った音楽家たちと話していると)5分もすれば話題は文学や美術、演劇など文化全般に移っていく。……(そこに加われなかった)僕は、非常な劣等感に襲われた。「これでは駄目だ」と一念発起、日本語に訳されたドイツ文学をすべて取り寄せて原語の本と比較したり、ドイツの新聞を克明に読んだりした。……とくにゲーテの『ファウスト』は、いつどの部分を話題にされてもわかるように、日本語の全集と原語とを照らし合わせて理解につとめた。……そうしてだんだんとドイツ人の思考の流れが身についてくるうちに、僕の演奏も変わった。……ドイツ語のアクセントや言葉の響き、センテンスといったものが、音色やフレーズと密接に関わっていることが、体感としてわかってきて、音楽に対する洞察力が深くなった。
チェリビダッケについて
音楽は時間の進行とともに音を「立ち上げる」点で、現象学の領域に属する。着地点を見定めず、起承転結を欠いては意味をなさない。演奏の哲学を僕に開眼させたのは、指揮者のセルジュ・チェリビダッケである。……彼はフッサールの現象学や禅の影響を受け、ちょうど僕が出会ったころに、「楽曲の起点にはすでに終点が内包されている」という独自の音楽観を構築しつつあった。それをなんとか僕にも伝えたいと思ったのだろう。
今はあまりにも表面的な音楽、上澄みをとってしまうと何も残らないような音楽がもてはやされている。しかし、そういう流行が過ぎ去って、より本質的なものを求めたいという気運が出てくれば、クレンペラーやチェリビダッケが見直されるのではないだろうか。
家庭について
僕にとって家庭というのはいわばプラットホームだった。安心して身を休める場所があるのは本当にありがたいことだ。芸術家は舞台では極限の孤独を味わう。それを終えて、誰もいない部屋に一人戻っていくのでは、あまりにも救いがない。……結婚すれば良いというものではないが、孤独に耐えてどのように自分の歩む道を切り開くか、非常に難しいことだと思う。だから僕は安易に他人に「音楽家になれ」とはとても言えない。
ベートーヴェンの音楽
ベートーヴェンの音楽は一人の音楽家の「ドラマ」だと思う。彼は、ピアノ曲を若いときから死ぬまで書き続けた。その発展の歴史をたどることによって、彼の音楽観の発展をたどることができる。……作曲家の精神の深化の軌跡をたどることは、音楽の醍醐味だ。……音の裏に隠されているイデー(精神性)を理解しないかぎり、とても鍵盤に手は下ろせない。
録音について
日本人ピアニストで、系統立てて全集を録音する人は少ないが、僕も当初はそのような意図はなかった。しかし考えてみると、僕の先生である豊増昇、永井進、井口基成といった、あれだけ音楽に造詣の深かった先生方の記録がほとんど残っていない。それで、自分の納得のいく音を残したいと考え、レコード制作にも真剣に関わるようになった。
70歳記念リサイタル
率直に言って、ピアニストとして70歳でリサイタルをきちんと開くことができたのはうれしい。……僕はただ、過去の演奏より少しでもいい演奏をしたいと思っているだけだ。……「高齢のピアニストはゆっくり弾く傾向があるのに、園田さんの演奏はきびきびとして獰猛なのがよかった」と感想をもらした人がいた。確かに安全第一で演奏すると、難しい箇所の前からテンポを落として逃げを打つ。しかし、失敗を恐れないで、敢えて挑戦するのが舞台芸術家の使命であると思っている。
ピアノについて
ピアノは歌詞のない歌、無言歌のようなものだ。背景にあるものをすべて自分の内に蓄積して、それが血となり肉となって、初めて指先から音楽が生まれてくる。楽譜を見て音符をただの音の響きとして還元するだけではまったく虚しい。
道程
音楽家はいい演奏をすることが使命だ。チェリビダッケの言葉を引用するなら、「我々のやっていることは、大海に指をさして穴を開けているようなものかもしれない。手を退けば、虚しくも水は元通りになってしまう。それでもなお真実をきわめることが、音楽家としての使命なのだ」。人生は哀しみと愛、失敗と挫折の繰り返しである。一見淡々と見える精神構造にも、多層的な傷跡が残っている。それらを含めたすべてが人生であるとの達観も、おぼろげながら理解できる年齢に僕は至った。ゲーテは、……「人は努力するから迷うのだ」という言葉を記した。ヨーロッパ社会の歴史とともに発展してきた西洋音楽の演奏を専門とするのもまた、生涯かけての闘いである。
*写真に付した言葉は、すべて著書「ピアニストその人生」(春秋社刊)より引用。