2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

ベートーヴェンのピアノソナタ考

ベートーヴェン ハンマークラヴィーア・ソナタ 作品106



 このソナタは、ヴィーンのアルタリアに100ドゥカーテンで売られた。出版社はべートーヴェンまで、7月24日に校正刷りを届け、1819年9月15日の『ヴィーン新聞』に、次の文面で発表された。
 「さて、ベートーヴェンの高い芸術才能の賛美者諸君には、いずれにしてもなくもがなであるような、ありきたりの賛辞をすべて省略することにするが、それは同時に、作曲家の希望とも合致するものである。ここにほんの数行をもって記するのは、その最も豊かで偉大な幻想によってのみならず、また芸術上の完成や、是認された様式についても、 この巨匠による他の創作のすべてにまさるこの作品がベートーヴェンのピアノフォルテ作品に、新しい一時期を画するだろうということである」と。

 この作はフランス語とドイツ語と、両方の表題で刊行されたが、ドイツ語表題は、次の通りである。

 「ハンマークラヴィーアのための大ゾナーテ、オーストリア枢機卿にして、オルミュッツ大司教台下、帝国ならびに王国の尊厳高貴なる、ルードルフ大公殿下の御前に、最も深き畏敬をもって、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにより献呈さる、作品106」。
 ソナタ作品106は、1818年の主たる産物であった。ベートーヴェンはチェルニーにそれは自分の最大な作であると語ったが、ただその規模ばかりではなく、内容についてもその通りなのである。ベートーヴェンはリースに宛てた手紙(1819年3月)で、こう述べた。「あのソナタは、苦しい事情で作曲した。というのも、殆どが、ただパンのために作曲するのは辛いことで、そういう破目に自分は当面していたからだ」と。 セイヤー著『ベートーヴェンの生涯』より

 この「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が、ベートーヴェンの全ピアノソナタというに及ばず、全てのピアノ作品の中でも最も長大で雄渾壮大、なかんずくその聖なる第3楽章 のアダージォは、古今のピアノのために書かれた最も深遠な思想の表出の音楽であり、またその終楽章のフーガは、技術的にも最も難解な作品として知られている。

 ベートーヴェンが「ハンマークラヴィーア」と言う名称をつけたのは、実はその前の作品101のソナタにも同様の名称が付けていた。このようなドイツ語による呼び名は、それ以前の鍵盤楽器である、ハープシコ−ドやクラヴィコードと区別したいという気持ちを強調したかったためと思われる。
 そこには、当時一般に使用されていたイタリア語によるピアノフォルテという名称に対して、ベートーヴェンは作品90頃から発想表示をドイツ語で書き始めたりして、いわば国民主義的な考えの現れがそこにあったのではないかとも言えよう。
 しかし、ソナタ作品101にも既に付けられた「ハンマークラヴィーア」という名称がソナタ作品106だけに残ったことは、偶然とはいえやはり象徴的なことと言わなければならない。
 ベートーヴェン自身、今に50年もたったらそれが弾けるようになるだろうと云ったが 、歴代の伝説的なピアニスト達、リストをはじめ、ハンス・フォン・ビューロー、ブゾー ニ、ダルベール、ラモント、シュナーベル、ソロモン、ナット、ケンプ、バックハウスなどは勿論のこと、或いは現存するピアニスト達、アラウ、ゼルキン、グルダ、アスケナージ、バレンボイム、ブレンデル、ポリーニ、と言った代表的なピアニストにとっても、演奏によって克服することの極めて困難な一大事業であることには変わりない。

 この講座をするにあたって、ロマン・ローランのベートーヴェンの生涯、作品群についての解説、及び後期のピアノソナタ、それとセィヤーとリーツラーのベートーヴェン伝、 属啓成、山根銀二のベートーヴェン伝などの関係したページを改めて観察して興味は尽きなかった。その中でも特に興味をそそられたのは、ドイツ、ミュンヘンの批評家ヨアヒム ・カイザーの「ベートーヴェンの32のピアノソナタと演奏家たち」という本の中にある作品106に関する詳細な演奏の比較であった。
 これらのことについては、いちいち譜例を引き合いに出してここで説明することは、時間の関係上、またあまりに専門の技術上のことでもあるので出来ないが、しかしこの長大なソナタがどのように成りたっていったかについて、色々の記録から推論することは非常に興味あることである。
 しかし、「ハンマークラヴィーア」について観察するまえに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの経緯を振り返ってみよう。

まず、ベートーヴェンの初期からの創作の経緯をたどってみることにしよう。
 ピアノ作品というのは、ベートーヴェンにとって常に創作の中心になっていたことは知るとおりであり、彼は生涯に渡ってピアノの作品を書きつづけている。
 そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタは初期の作品と言えども、それまでのハイドン 、モーツアルトの音楽とは違って極めて意欲的な、想像の範囲を越えた作品群を書いたのである。
 その典型的な楽章配置は、作品2の3曲のソナタに見られる第一楽章Allegro,第二楽章Adagio、第三楽章Menuettoか、Scherzo,そして、終楽章 はAllegro,Allegretto,或いはPresto,といった四楽章構成のパターンがすでに出来あがっていたわけである。
 それらはたとえば初期のソナタとはいえ、まるでシンフォニーの如き構想を持っていて 、ピアノソナタとして四楽章のソナタとして書き始めたのである。
 そして作品の数を重ねるごとに楽章配置の変化を試みることとなり、Op.13の悲愴ソナタでみられるような、荘重な序奏をもった第一楽章、Grave-Allegroといった形式の試みから始まり、Op.26の変奏曲付のソナタ、そして有名な「幻想ソナタ」Op.27 No.1 で見られる、Andante-Allegro-Adagio-Allegroの全ての楽章が切れ目なく繋がっている一楽章形式のソナタ、Op.27 No.2 の「月光」にみられる大胆な第一楽章の削除といったような色々の試みをして形式も段々に変化してゆくことになった。

 やがて中期になると、音楽の内容は主観を強く取り入れて浪漫的な作風となり、「テンペスト」、「ヴァルトシュタイン」、「アパショナータ」へと、形式と内容の合体とによ り、ピアノ演奏の技術と楽曲形式の展開によって一大発展を遂げたのである。
 1804年から5年にかけて作曲されたピアノソナタOp.57「熱情」において、それまでのピアノ作品の頂点を到達した後、ベートーヴェンのピアノ作品の創作が、やや間歇的になったとしても、それは致し方ないことかもしれない。
 1809年に作曲されたOp.78 の「テレ−ゼ」、9年から10にかけてのOp.81a「告別ソナタ」などが、その間の作品として完成されてはいても、ソナタの規模構成とその内容とも縮小されてきた。
 そして、1816年にOp.101 のソナタが「ハンマークラヴィーア・ソナタ」としての登場してくるのだが、殆ど13年にも渡って作品が段々と少なくなっていったのは、 ベートーヴェンの創作意欲がだんだんに薄れて行ったのではなく、他にその原因があった 。
 当時、ベートーヴェンをとりまく世間の政治的一代変革は、ナポレオンの進攻により、ヨーロッパ各地の支配階級であった貴族社会は急激に変革を迫られることになった。
 その経済的不安定さによって、貴族から年金を得ていたベートーヴェンの生活はたちまち破綻をきたすことになったからである。

さて、具体的に作品について触れていこう。
 前に作曲家諸井誠氏とベートーヴェンのピアノ・ソナタに関して往復書簡風の本を纏めたことがあるが、そのなかで「ハンマークラヴィーア・ソナタ」については、ウイルヘルム・ケンプの言葉として「まことにこの曲は白雪皚皚たる氷河の上に、否、さらに高い層にその故郷を持つものであるでしょう」と作品106について語っている。
 また、エドヴィン・フィッシャーは「この曲の意味をすっかり汲み尽くすことは誰にでも出来ることではない。そのためには我々はベートーヴェンの全生活を彼と共に遍歴し、 彼の精神の世界創造の働きをみまもらねばならない」と述ていることを引用した。

まず、作品における「困難」とは何か。
   ◯ 第一に作品を把握することの難しさ、つまり技術的に克服することの困難さ。
   ◯ 次に、音楽的な意味で作品が理解し難いと言うこと。

 理解し難いということは、作品に特異な音楽的表現が使用されていること、もしくは、 極端に複雑な構造様式とか、また難解な性格を備えているとかがそれである。
 勿論「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の演奏には初歩的なピアノの学習者に対する以上の技術が要求されるのは当然なことであるが、「作品が難しい」と言う時の上述の要因をこの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」はみんな備えているように思う。
 それに加えての困難さは、作品の長さが問題である。全体が40分を越える全楽章の緊張の持続、アダジオだけでも20分近い精神の沈潜を要求する膨大な楽章構成、そして最後に出現する壮大なフーガ、それらの充実した生命の横溢、情熱の奔流などを弾きこなすことは、演奏者に非常な精神の集中力と、超人的体力と気力、その習練を必要とすることであって、それが「困難」という意味である。

 正直に言って、困難の最大のものはベートーヴェンによるテンポ指示である。
   ◯ 第一楽章 2分音符=138
   ◯ 第二楽章 2分音符=80のメトロノ−ム指示には、ほとほと困惑する。

 そこで繰り返し言われてきたことだが、一体ベートーヴェンがメトロノームなどの機械を正しく使えたかどうか。何しろ彼はその頃はもうかなり耳は聞こえなくなっていて、運び込まれたブロードウッドの新しいピアノの、目茶目茶に狂っていたのを無頓着に喜んで弾いていたのである。それと伝えられる別の話。

 ベートーヴェンがある出版社の要求に応じて譜面にメトロノームの速度記号を書いて送ったところ手違いでそれが先方に届かず、出版社の再度の要求で、ベートーヴェンは改めて速度記号を記して送った。ところがこうしているうちに、二つのベートーヴェン自筆の速度記号による楽譜が出版社に届いてしまった。それで出版社はそのいずれが正しいかを ベートーヴェンに尋ねたところ、彼は怒って、「メトロノームなど悪魔に食われてしまえ」と言ったとか。
 また〔Stimmung〕気分ということだが、意気軒昂の気分であるときは人はテンポを早く感じているということ、心が沈んでいればテンポは遅くなると言うこと、従ってテンポと言うものは、必ずとも楽章の細部にまで同一である筈がないということが考えられる。

 以上のような推論によって、ピアニスト達の演奏は幾つかの種類に分けられる。
  ・まず、ベートーヴェンのテンポ指示に出来るだけ忠実に従うことに苦労する人達。
  ・またはテンポ指示は百も承知だが、まるっきり無頓着に演奏を自分の主観でする人。
  ・その中間をゆく両方の折衷者達。

 例として、第一楽章のメトロノームをかけてみることにする。
 第一主題のたたみかけるような和音連打の動機には、このテンポは非常にうなづける。
 しかしその後、このテンポ指示を守ることには直ちに技術的困難が生じる。
 一つの救いとなることは、実に頻繁に出現する長いritardandである。
 これには、ベートーベンはめずらしくpocoと書いてない。つまりかなりゆったりしたテンポまで速度を落とすことが可能となる。してみると=138という速度は基本的には正しいのだろうか。
 しかし、この速度では決定的に速すぎて具合の悪い処理出来ないフレーズもある。
 第二主題群の中の、美しいメロディーに到り、演奏者は困惑するのである。

 ハンス・フォン・ビューローは音符=112としている。それに関してビューローはこのテンポの設定は、ベートーヴェンの後期のソナタのオーソリティーと見なされているカール・チェルニーの意見に明らかに対立するもの、と明言している。ビューローの意見 は、「チェルニーの云うテンポ=138は、どのように考えても第一楽章のどっしりした重厚なエネルギーの表出には速すぎる。多分これは当時ウィーン流行の、響きの欠如したピアノでは正当化されるものであっても、現代のモダンなコンサートピアノでは、彼の指示したテンポでは、混乱したぼんやりとした印象しか与えられない」としている。

速度以外のもう一つの、以前良く論争された大きな疑問
 再現部B-Dur 変ロ調長に復帰するその和声進行を考える時に、aisであるか、a であるかという問題は、どのエディションをみても、現在ではaisである。
 その理由は、ベートーヴェンは意外と記号の記入に関しては几帳面で克明であって、f、p、fs、cresc など、その記入の位置などは疎かでない。
 従って、再現部の一小節前では、四箇所もへ音の前に本位記号をつけているのである。
 もしも、ベートーヴェンがイ音を意図していたとしたら、当然その前から打たれる8箇所の音に本位記号を付け落とすということは信じがたい。また、すぐその後の二重線の所 でシャープからフラットへ調子記号を書き換える時に気がつかないことは考えられない。

第二楽章は2分音符=80
 これはとにかく忙しいスケルッォである。主題は第一楽章の第一主題動機の三度音程で楽章全体が奇奇怪怪の悪ふざけ。人を煙に巻くのである。動機は上下行して飛び跳ねる。
 狂暴なエネルギーの爆発の後、この悪魔的楽章はあっという間に終わる。
 何れにしても、1817年の秋から18年にかけて、この二つの楽章が完成したことに より、一組の纏まりははっきりと窺がえる。

第三楽章 アダージョ・ソステヌート
 ベートーヴェンの全ピアノソナタの中でも最も心を打つこのアダージョについて、言葉で語ることは難しい。ベートーヴェンの創作を三つの時期に分ける事を考えた、ウイルヘルム・フォン・レンツは、このアダージョについて、「全世界のすべての苦悩の霊廟」と 呼んだり、エドウィン・フィッシャーは、「人が魂の最も深い所から出てくる何か特別の訴えには、囁きにまで声を落とす」とか、ロマン・ロランはこのアダージョに対して、沢山の感動的な文学的な言葉を呈していて、その中には色々感動的な文があるが、この音楽を美しいとか感動的とかいう言葉では表せないものである。
 その20分にもわたるこの音楽は、ピアノという楽器でしか表すことが出来ない思想感情の吐露である。同じ種類の音楽を探すとすれば、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏にしかその精神の反映がないと思われる。
 そこで、ベートーヴェンの表情指示、アパシォナート・エ・コン・モルト・センチメン ト(熱情的に、また非常な情を込めて)と言う言葉は無限に意味深い指定である。
 ベートーヴェンのピアノの作品全てが失われたとしても、このアダージョだけが残ればピアノ作品におけるベートーヴェンの偉大さを見誤ることはない、と思われるほどピアノ ・ソナタの全作品の中でかけがえのない楽章であることには間違いない。

ラルゴ
 アダージョで我々が感じた精神的な高みに浮遊する気分を、現実世界へとひき戻すこと についての、ベートーヴェンの天才的創造の手腕にはただただ驚くのみである。
 フーガの導入の役割をする二重三重の呼び戻しはまことに絶妙である。

フーガ=144
 このフーガをロンド形式と結び付けて考えることは賢明である。
 何もかも一つの鍋の中に投げ込んで無茶苦茶な強引なフーガにしたて上げられているが 、それは混沌としている現実に何か秩序をもたらし体系付けしようとすることにも似て、 意外とベートーヴェンはこのフーガが気に入っていたかも知れない。
 フーガで問題になるのはトリルである。これには後打音を付けたものと付けないものとがある。私は、主題と思われるトリルには後打音を付けて演奏するよう努力するのだが、 しかしなにごとにも例外は沢山あって、後打音を付けては演奏出来ないもの、後打音を付けないと弾ききれないもの、ベートーヴェン自身によって実音として後打音が既に書き込まれているものなどの例外も可成りあるので苦心する。

 何れにしても、ベートーヴェンがこの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を書きあげた頃は経済的には非常に苦しく、それに加えて政情不安定な時代の中、忍び寄る孤独と病に向かいあってこれと闘いながら書き上げたのである。
 この頃のベートーヴェンには年金以外の収入はない。出版社に売るべきめぼしい新作がないからである。そのため僅かでも書き終えた作品を、ドイツだけではなくフランスやイギリスに新しい出版社を見つけようと苦労する。
 特に、イギリスは裕福な国であって、当時ベートーヴェンを招聘しようとやっきになっていたので、作品の売り込みには恰好の地であった。
 だから「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の第一楽章と第二楽章が出来上がった時、早速に二つの楽章だけでも売り込みを頼んだ。
 また四楽章の形に完成したあと1819年3月にはベートーヴェンは、この「ハンマークラヴィーア・ソナタ」がロンドンで受入れられるために、といって驚くべき提案さえして、「もし、このソナタがロンドンに向かないとしたら、別のをお送り出来るとよいのですが、或いは終楽章でラルゴは外して、フーガのところから直ぐ始めてもよろしい。
 または、第一楽章、次がアダジオ、その後に第三楽章としてスケルツォ、そして第四楽章のラルゴとアレグロ・リゾルート(フーガ)を含めて全体的にカットしてしまう、というのでも良いのです。それとも、まず第一楽章で、その次にスケルツォが来る、というだけで良い。2楽章で全ソナタを形付けるのです。
 このソナタは押しつめられた状況下で書かれました。なぜなら殆どパンのために書くのは辛いことだからです」、と。

 ベートーヴェンのように、作品を一つとして同じような構成で書くことはなかった作曲家が何とかして、新作を一刻も早く出版社に売りたいとやっきになり、あれほど苦労して書き上げた作品を、切り売りすることも辞さないという切羽詰まった状態を察するならば 、これはなんと胸の痛む思いであろうか。
 そしてまた、この大作を創造したことにより、ベートーヴェンは再び創造の炎を燃すことが出来るようになり、その後、ミサ・ソレムニスを、そして人類の偉大な記念碑的な 第9交響曲の完成へ創造の意思を鼓舞し、また最後の三大ピアノソナタの創作へとなるのである。ベートーヴェンの創造の力に対するただただの驚きと敬服を、「ハンマークラ ヴィーア・ソナタ」に接する時、その感動を常に新たにする。

ピアノ教育連盟、講座と演奏