ベートーヴェンのピアノソナタ考
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ
初期 | 中期 | 中断 | 危機 | 後期
[ 初期 ]
ここで、初期のピアノソナタOp.2 の三曲の楽章構成を見てみましょう。
Op.2. Nr.1
Allegro, Adagio, Allegretto,(Menuetto), Prestissimo.
Op.2.Nr.2
Allegretto.vivace, Largo Appassionato, Allegretto (Scherzo) Grazioso (Rondo)
Op.2 Nr.3
Allegro con brio, Adagio, Allegro (Scherzo) , Allegro assai.
この楽章構成はまるで交響曲のような楽章構成であって、つまりベートーヴェンは彼の最初のピアノ・ソナタをあたかもシンフォニーを書くような壮大な規模の作品として作り上げたのです。
実際これらの曲は初期の作品とはいえ演奏は大変に難しくて、演奏時間も30分を超える長いものです。しかし青年ベートーヴェンの意気軒昂な気分を感ずることが出来、将来の創作を暗示するような見事なものです。
ベートーヴェンの初期の創造の特色の一つに、それまで好んで使用された優雅な楽章であるメユエットに代わって、同じ三拍子でも早いリズムの楽章、スケルツォを取り入れたことがあります。スケルツォはもともと諧謔的、風刺的、悪戯っぽい性格を持っていて、その早くて快活な動きは、ベートーヴェンの性癖にも嗜好にもぴったりだったのだと思われます。
ベートーヴェンの創作についてもう一つの注目すべきことは、彼の先人達ハイドンやモーツアルトと較べてみると、ピアノの作品はもとより、室内楽や交響曲に至るまで初期の作品から類似の作品が無いということです。つまり一作毎に常に何か新しい創意と着想が満ちたものでした。
このようにして、作品13の有名な『悲愴ソナタ』が出現するわけなのです。
その頃ピアノソナタと言えば、第一楽章は普通、Allegro の早い楽奏で始められるのが通例であって、いきなり荘重で重々しくゆったりした劇的なGrave などの楽想によって、 曲が開始されると言うことは前代未聞のことでした。ベートーヴェンの創意工夫の執拗なこと、慎重なことについて、特別な関心を引きます。
このGrave の楽節の後で、勢いの良いAllegro di molto e con brio が来ますが、展開部のところに再びGraveが現われ、そして楽章の終結部に三度目のGrave が出現します。
このように、楽章のなかで度々速度の異なる楽想を繰り返して取り扱うという構成はベートーヴェンが始めて試みたことでありました。
この『悲愴ソナタ』によりベートーヴェンは新進作曲家として人気も出て、一躍大成功を収めました。
次に注目すべき作品として、作品26の『葬送ソナタ』が出現します。
その楽章構成は、
第一楽章 Andante con Variationi
第二楽章(Scherzo )Allegro molto
第三楽章 Marcia funebre (葬送行進曲)
第四楽器 Allegro
と云う、極めて変則的な楽章構成をベートーヴェンは考えつきました。
これは、前に説明したモーツアルトの例外的なピアノ・ソナタ『トルコ行進曲付のソナタ』を思い起こしてみると、ベートーベェンには、明らかにそれをお手本として創作したことが判ります。
形式的には第一楽章の変奏曲はそのままですが、第二楽章はモーツアルトのメヌエットを ベートーヴェンは彼のお気に入りのスケルツォに変更させて、第三楽章ではモーツアルトは当時流行の異国趣味であったトルコ風の行進曲を書き、ベートーヴェンの方は「ある英雄 の死を偲んで」という思いで、荘重な厳粛な葬送行進曲にしました。この両者の作品の違いも 、二人の芸術家の面目を良く現しているように思われます。
ベートーヴェンは更に、陰気な葬送行進曲のまま作品が終結するのを嫌って、第四楽章に流れるような美しい楽章を添えている気配りには敬服するばかりです。
続いて創作された作品27−1と2、この『幻想ソナタ』(Sonata quasi una Fantasia)を観察する時 、人はベートーヴェンの創造力に驚嘆するのです。
作品27−1では、ソナタの楽章構成において、一楽章二楽章三楽章といった各楽章の仕切りを幻想風という言葉通りに全て取り払ってしまいました。
それの創作にあたっては先の『悲愴ソナタ』の第一楽章で、遅い速度の楽想のGrave や 、早い速度の楽想を交互に使用したことからヒントを得て、こうした切れ目なく続く楽章 形態を考えついたのかも知れません。ここに一楽章形式によるソナタの芽生えがあるので、 その楽想動機を観察して観るならば、そこには各楽章に共通して使われる「循環動機」の 芽生えすら発見して驚きます。
次に『幻想ソナタ』としてはむしろこの曲の方がかえって有名な、作品27−2の『月 光ソナタ』が出現します。月光の名前の由来は、詩人レルシュタープが「このソナタの第一 楽章はスイスの『四つの森の湖』にそそぐ月の光りを見るようだ」と形容したことから引用された命名で、まさにそれにふさわしい雰囲気を上手く云い当てたものです。
このソナタは、全体の楽章構成を見てみると面白いことに気付きます。
第一楽章 Adagio sostenuto
第二楽章 Allegretto(Scherzo )
第三楽章 Presto agitato
となっていて、これは通常のピアノ・ソナタの第一楽章が省略されているということなのです。そのころのピアノ・ソナタの常識としては、このように遅い楽奏の楽章で始まるピアノ・ソナタというのはありませんでした。
一つの先例としては、モーツアルトのK.V.282 Es-Durのピアノ・ソナタで、第一楽章が Adagioというのがあります。しかしその音楽の内容はベートーヴェンのそれとは異なっています。モーツアルトの方は、Adagioとはいってもその後の楽章のMenuettoの導入的な性格を備えた優美な楽章であるのに対して、ベートーヴェンの発想は、もともとモーツアルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』のなかの、騎士長がドン・ジョバンニの剣に刺されて倒れて息が絶えてゆく劇的な場面の音楽からヒントを得て書かれた如く、全体は重苦しい深刻な気分の哀悼の音楽です。
このようにして、ベートーヴェンの創作が徐々に楽章形式の配置に変化を付けることから始まり、今度は楽章の内容について、更に検討して行くこととなったのは偶然ではなかったのです。
[ 中期 ]
そこで中期の作品として新たに問題となる、作品31の三つのソナタをまず最初に取上げなければなりません。
これらの三つ曲の生まれた由来は、ベートーヴェン自身が出版社にあてた手紙によって明らかになっています。それによれば、或る婦人がベートーヴェンに「何か普通の作風ではなくて、革命的な意図を持った新しいソナタを書くことを依頼した」ことに対して、「私にそんな事を要求をする奴らは、悪魔にでも食われてしまえ」と言ったとか。
しかしベートーヴェンの心の中にはその依頼の言葉がどこかにひっかかっていたらしく、「これからは、私は新らしい道を行くのだ」と人に語っていたと言われています。
その新しい道が作品のなかで具体的に何を指すのかははっきりしないけれど、作品の内容の表出についての変化に関係のあることであるように思われるのです。
作品31−1のソナタを観察してみると、楽章の配列にはこれといった新鮮味は無いのですが 、第一楽章では面白いことに気付きます。この曲の演奏を聞いた人は「なんだ最初から最後ま で左右の手が揃はなかった」と言ったという面白い逸話が伝えられています。これなどはベートーヴェンの創意というよりも、茶目っ気たっぷりの悪戯だといえます。また、第二楽章のAdagio grazioso は、まるでオペラのなかで聞かれる下手な歌手が歌うアリアをパロディーとしてもじっているように風刺的です。
更に作品31−2『テンペスト』については、ベートーヴェンの忠実な下僕とされているシントラーによって、より具体的な記録が残されています。
シントラーはベートーヴェンに「この作品はどのように考えたらよいか」と尋ねたところ、ベートーヴェンは面倒臭かったのか、「シェークスピアのテンペストを読め」と言ったことから、この作品が『テンペスト』と呼ばれることとなりました。
ベートーヴェンにしてみれば、シントラーの世話焼きは時には非常に煩いものであったのでしょうが、後世の人達にとってはこのベートーヴェンの答えは大変に有り難いことと言わねばならないでしょう。
第一楽章の冒頭の和音のアルペジオ。それは、弟アントニオによって君主の地位を横領され、娘ミランダと共に絶海の孤島に追放された王、プロスペローが海に面した岩壁に座して竪琴を奏で、我が身の不運を嘆いている情況を彷彿とさせる名場面です。
第三楽章の楽想は、復讐の嵐によって、弟アントニオ一行の乗っている舟を難破させ、 命からがら島にたどりついた彼らと対面するという、一大悲劇の場面を思いうかがはせる 音楽です。この前後の二つの楽章に挟まれた、第二楽章の譬え様もない美しさ、これはまさに娘ミランダの純真無垢な愛の世界、汚れを知らぬ天使の如き清らかな心を、ベートーヴェンは歌声によって現したものでしょう。
この作品31−2『テンペスト』はベートーヴェンのピアノ音楽としても、作品に劇的物語を盛り込むという観点からみれば、知らず知らずのうちに後に出現するピアノ音楽の記念碑的な傑作『熱情ソナタ』への創作の伏線となりました。
次の、作品31−3のソナタも特徴ある作品です。
普通楽曲の開始の調子は、楽曲の主和音で始められるのが習慣で、ハ長調ならばハ長調の主和音、変イ長調ならば変イ長調の主和音といった具合です。
したがってこのソナタを初めて耳にした人は、楽曲の開始の最初の和音を聞いただけでは、この曲が一体何調であるのかが判らなかったのは当然です。
その後に頻繁に出現する音楽の一時中止のフェルマータは、それによって曲は進行するのかしないのか、聞く人はベートーヴェンの悪戯によって、煙に巻かれた思いだったでしょう。ここ に茶目っ気たっぷりのベートーヴェンの得意顔が見えるようです。
第二楽章と第三楽章にも新しい趣向が凝らされていて、第二楽章は四拍子のスケルツォであり、第三楽章にはメヌエットを、つまりスケルツォとメヌエットの楽章を並列に配置するというようなことを試みています。
このようにベートーヴェンが宣言した「新しい道」が何を意図したのかは判らないにし ても、この作品31の三つのソナタを創作の大きな流れのなかで観察してみると、以上のような作品の特徴が浮かび上がってくるのです。
これら全てがこの後に出現する中期の傑作『ワルトシュタイン』『アパショナータ』への土台となってゆくところに、ベートーヴェンの創造の偉大さと凄さがあります。
その頃、1803年にベートーヴェンはリヒノフスキー王女からフランスの名器であるエラールの楽器を贈られました。これはその頃ベートーヴェンが持っていた楽器よりも7鍵多く、楽器の性能も以前の楽器と較べれば格段に良くなっていたのです。性能が良かったとはいってもフレームは木骨で、巻線はなく、低音5本は真鍮線であり、ハンマーには鹿皮が使用 されていて全体的には今の楽器に較べるべくもない華奢なものでした。
したがってベートーヴェンの狂暴な演奏によってしばしば壊れ、楽器商シュトライヒャーによっていつも修理されていたという記録があります。
しかし楽器の性能が良くなったとはどういうことかといえば、打鍵の返り、音の連打がたやすく出来るように鍵盤のアクションの機構が改善されたのです。
この楽器の機能の進歩発展は、ベートーヴェンの創作意欲を刺激したことは間違いなく、 そこであの『ワルドシュタイン・ソナタ』が出来上がってきたのです。
このような楽句は、以前の何人の作品にあったでしょうか。
また第三楽章の冒頭の低音の長い持続音は、ベートーヴェンがただ単に意図したというよりも、楽器の共鳴がそれほど豊かになったことの証ではなかったでしょうか。
したがって、現在の更に共鳴豊かなピアノで演奏する時に、和音の響きが濁るのを恐れるあまり、頻繁にペダルを踏み変えることは、ベートーベンの意図した雰囲気の持続を妨げることにもなるので感心出来ません。
『ワルドシュタイン・ソナタ』でもう一つの技術的特徴として、最終楽章のロンド形式で何度にもわたってピアニストを悩ませる長いトリルが出現します。それの演奏方法に関しては種々試みられていますが、シャーマー版でその詳細な解読が音符によって記述されているハンス・フォン・ビューローの奏法は最適と思います。
このようにして、作曲家の作品と楽器の性能とは意外に密接な関わりを持っていて、お互いに刺激しあって創作が行われたということに関心が行くと、今まで気にも止めずに見過ごしていたことが、思いがけない意味を持って見えてきます。
さて、いよいよ古今のピアノ音楽史のなかでも最高峰に位する傑作『熱情ソナタ』に辿り着いたわけですが、勿論このようなデーモン、悪魔や鬼神に見入られた凄まじい作品は、 譬え相当な才能があったとしても、普通の常人が創造出来る代物でないことは良く判ります。
しかしこれまでに述べて来たことを一括して思い返してみるならば、この『熱情ソナタ 』の創造は、それまでの古今の楽器の発展の経過、いわば芸術家の創造を助ける物質的素材の進化発展などによって支えられていることに気付きます。この『傑作』の出現は全くの偶然 ではなかったのです。
長い年月を通じての天才作曲家達の創作による楽曲形式の変化、それを支え予告するかのような楽器の発達と発展、それらが渾然と一体となって作品は生まれるべくして生まれたのです。作品57『熱情ソナタ』の通り一遍の分析や解説はここではしないで、その他のこと、ベートーヴェンが常々非常な注意をもって書き記していた楽想の対比ということに目を向けてみましょう。
これまでに楽想の対比ということでは、同じ旋律或いは同じ動機を、piano やforte で 表すことは多々あっても、ppやffで提示することはありませんでした。そして、第一楽章の終結では音楽はdiminuendoとなり、最後にはppp の表示がベートーヴェンによって書かれていることは特筆すべきことです。
第二楽章では、沈濳した魂の祈りの如き変奏曲で曲を開始して、それを終楽章への序奏としています。
疾風怒濤の感情の嵐、情熱の奔流の終楽章では、その当時のピアノという楽器の概念などを度外視して、狂暴なまでの感情の爆発に終始します。それは楽器の音域の制約を超え、音量の限度までを唸り声をあげて荒れ狂うかの如く、ベートーヴェンはピアノの鍵盤61鍵 の上から下までをかけずりまわるのです。
最後のコーダでは、実に10回にわたり楽器の最高音を叩き、その後、凄まじい奔流となってピアノの最低音の奈落の底まで、聞く人の心を引きずり込むようです。
ベートーヴェンの音楽は一口に言えば、構築の音楽であります。楽想を形成する一つひとつの動機、その構成、配置に至るまで、そこにはベートーヴェンの驚くべき綿密な思考があったことを、後世の数々のベートーヴェン研究家達が指摘しています。
そしてベートーヴェンの音楽には、ソナタ形式という原理のなかに、それまでになかった葛藤に満ちた、攻撃的で破壊的な力が入ることを許し、いわば音楽の歴史の中に一つの革命的な端緒を開いたのです。
そしてこの英雄的とでも名付けるべきベートーヴェンの音楽様式の中心に、悲劇的な要因を組み入れました。この悲劇的要因は、月並みな感傷に止まらず、ベートーヴェンの音楽は悲劇を超越して、喜びや勝利に導くことで完結するのです。
文豪シラーに『悲劇芸術』の法則と言うのが有りますが、そのイデーの第一は、苦しみの本性を再現することであり、その第二に、この苦しみに対して道徳性を再現することとしてあります。
ベートーヴェンの英雄主義は、死すべき運命との相剋として定義されるのですが、この運命は、やがて新たに変容を遂げた新しい生命となって勝利を導くのです。
この創造的イデーをベートーヴェンは非常に気に入っていて、この様にして『英雄交響 曲』『運命交響曲』、オペラ『フィデリオ』などが生まれてゆくのです。
1804年から5年にかけて作曲されたピアノ・ソナタOp.57『熱情』でピアノ作品の頂点を築き上げた後、ピアノ作品の創作がやや間歇的となったのは致し方なかったかも知れません。
1809年に作曲されたOp.78の『テレーゼ』、9年から10年にかけてのOp.81a『告別ソナタ』、作品90などが、その間の作品として完成されてはいるけれど、 作品の規模も内容も縮小されてきました。
1816年のOp.101のソナタと『ハンマークラヴィーア・ソナタ』が登場するまでの殆ど13年にも渡って中断があるのです。
[ 中断 ]
1811年の終わり頃からスケッチされて1812年に完成された『第7』『第8交響曲』、作品96の最後のヴァイオリン・ソナタ第10番、作品97の『大公』トリオなどを 最後に、ベートーヴェンの創作力は完全に停止してしまうのです。
ベートーヴェンは1812年から『第9交響曲』を書く1824年まで12年間も次の交響曲を書くのに時間がかかったのです。
1809年以降に協奏曲はない。
1811年以降はピアノトリオもない。
1809年に作曲された81aの『告別ソナタ』から1814年の作品90のソナタまで5年の空白があるのです。
ベートーヴェンの英雄的創作の時代の音楽、古典的な形式感、彼が今まで使ってきた様式感は再び使うことが出来なくなるほど、使いきってしまったかに見えました。そして何か新しい表現形式を捜し出す必要に迫られていたとも言えます。
[ 危機 ]
1813年には殆どなにもしていないのです。
ルドルフ大公に宛てた1813年5月の手紙のなかでも「健康に関して、精神的な原因が影響を与えている」とか、「不幸な出来事が次々と起こって、錯乱状態ぎりぎりのところまで追い込まれている」とか述べています。
ベートーヴェンが自らの命をたとうとしたと思われるのは、凡そこの時期ではなかったかと推測されています。もっとも自殺という考えはベートーヴェンにとっては珍しいものではなく、それはハイリゲンシュタットの遺書のなかでも述べられています。
そこには『不滅の恋人』との決定的な別れ、諦めがベートーヴェンにとって余程の精神的打撃であったであろうことを窺い知ることが出来るのです。
ところでベートーヴェンの生きていた社会も、そのころ急速の変化をとげることとなりました。1812年12月、ナポレオンのモスクワからの退却、続いて1813年6月のイベリア半島におけるウェリントンの勝利は、ナポリオンの凋落を決定的としました。
ベートーヴェンは人の勧めによって、これを記念する『機会音楽』の仕事をすることになり、『ウエリントンの勝利』と言う新しい作品を書いたのです。これがとてつもなくもてて、ベートーヴェンは一躍ヴィーン市民の熱狂的支持を得て演奏会が盛んに行なわれました。その大袈裟な表現と英雄的なパロディーの茶番劇は、その後のベートーヴェンの後期の作品とは全く無関係で無縁なものでしたが、ベートーヴェンはこれによって1814年は大いに経済的に潤い、またたくまに利益を得て銀行株を購入したりしています。
しかし、人の心はうつろいやすく、突然湧いて出た不安定な人気は、再び突然に急速に失われて行くのでした。こうして1815年は過ぎてゆくのです。
ベートーヴェンは転換期にあったのです。
それは、ベートーヴェンをとりまく歴史的環境の変化が重要な役割を果たしていたとよくいわれますが、それだけではないのです。
ナポレオンの戦争が終結して、それによる貴族社会の崩壊、ヴィーン社会に発生した快楽的傾向は、ロッシーニに代表されるイタリー様式、イタリヤ音楽の官能的舞踏形式をもて囃すようるになり、ベートーヴェンを支持していた聴衆を大量に失ったのです。
それらをベートーヴェンは「気まぐれで官能的なもの」として軽んじてはいました。
またベートーヴェンを援助していたパトロン達は、戦争の動乱を通じて移住したり死んだりして、ルドルフ大公を除けば殆どいなくなってしまったのです。
ベートーヴェンは独自の道を探さなければならなかったのです。
ベ−ト−ヴェンが後期の作品群の音楽構造や様式の問題を何時頃から考えていたかは定かではありません。
しかし、ベートーヴェンの後期の様式は、既存の音楽的手法の組合せによるものではなく、作曲家の心のうちから作り出されるものでなければならず、それは音楽の歴史にも前例のないものでなければならなかったのです。
[ 後期 ]
こうしてベートーヴェンの脳裏に、創作の基本とも支柱ともなる要因に過去のバッハ、 ヘンデル、パレストリーナなどが浮かんできた。すなわちポリフォニーの音楽です。
それには昔ベートーヴェンが学んだ、アルブレヒツベルガーから習得することのなかったフーガに対する関心が急速に高まってきて、それを熱心に探究し始めたのでした。
これはやがて、ベートーヴェンのソナタ形式のなかに採り入れられ重要な役割を果たすこととなったのでした。
ベートーヴェンの聴覚はそのころ全く絶望的でした。
その頃のベートーヴェンの演奏を耳にした人の証言によれば、ベートーヴェンは強音ではしばしば聴くに耐えない雑音がしても意に介しない風であったし、また弱音では、あまりのタッチの弱さに、和音がごっそり抜け落ちてしまって何を演奏しているのか判らなくなってしまって、人々はベートーヴェンの恍惚とした音楽にささげた崇高な顔を見て、胸が痛んだと言われています。
1815年にはベートーベンの弟カスパル・カールが死に、未亡人ヨハンナと9才の甥カールとのごたごたが、長いことベートーヴェンを精神的に煩わせることになったのです。
こうしてベートーヴェンは1816年から22年にかけて最後の5つのピアノ・ソナタを書き始めます。そのなかで、最大の作品106については、長くなるので別項[ハンマークラヴィア・ソナタ]を読んでいただきたいと思います。
つぎにベートーヴェンの最後の三つのピアノ・ソナタ、作品109、110、111についてお話しましょう。
これらのソナタはベートーヴェンの公僕シントラーによれば「1820年の夏、メードリングでの心地好い夏を過ごした後、蜜蜂のように楽想を集めて来て、ヴィーン に帰ってから一気に書き上げられた」と言うことになっています。
しかし、実際には1820年頃から1822年に渡って書かれたようです。
この頃、ベートーヴェンは既に52才になっています。
ということは当然のことながら、1813年頃のいわゆるベートーヴェンの危機の時から9年の歳月が経っていて、彼の創作にはある落ち着きが現れています。
そして「作品はそれぞれ別々の精神の様相を帯びている」とロマン・ロランは言っていますが果たしてそうでしょうか。
ピアノ・ソナタ第30番、作品109
第一楽章
ソナタ形式の基本的な図式は、二つの主題つまり第一、第二主題の提示の仕方です。
この作品109のソナタでの二つの異なった概念は、更に極端に押し進められ、速度の上でも対照的で、ヴィヴァーチェ・マ・ノン・トロッポとアダージョ・エスプレシーボで現されています。
これはベートーヴェンの持論である「二元的概念」の展開であって、対照的、対比的な性格の表示であり、ベートーヴェンの言うところの女性的なものと、男性的なもの、懇願 するものと征服するものという対立する概念の現れです。
大ピアニストであったエドヴィン・フィッシャーのベートーヴェンのピアノ・ソナタに関する卓絶した講演記録によれば、「ヴィヴァーチェとアダージォの相違は単に外見上のものであるに過ぎない。全体はあたかも一気に型にいれられて鋳られたもののごとく、 即興的に奏されねばならない」とあります。
これは甚だ妙な説明であって、これによってか、この作品109の演奏はしばしば誤解されて浅薄な感傷的に流れるような演奏が行われこととなりました。
二つの主題の対比は、ベートーヴェンのように速度表示に綿密であり、表情指示に厳密であった創作例を色々と考慮するならば、外形上は勿論のこと、性格的にもまったく異なった世界の顕現でなければならないでしょう。
第一主題への復帰、第二主題の再現といった型通りのソナタ形式のあと、終結部があって 一見楽章は終わったかに見えます。ところがこの夢見心地の終結の後、ベートーヴェンは楽章の終結線を引かずに、二重線を書いただけで、調子をホ長調からホ短調へと換えて、突 然激しく早い速度のプレスティッシモに突入するのです。
つまり、それまでの最初の幻想風の楽想は、後半の感情の激流のようなプレスティシモの導入部の役割をしていたわけで、本命はあくまで後半の速い楽章にあることが明瞭になってくるのです。
ベートーヴェンは構成上、主題の性格的対比と、形式上での前後の対照的な楽章対比を 、一つの楽章のなかで二重に構築したことになるのです。
第二楽章 主題と変奏
心からなる感動を持って、歌に満ちみちて)
このような美しい主題と変奏曲はベートーヴェンの他の曲にはかってありません。
ようやく諦観にひたれる時期に達したベートーヴェンの精神状態が、遙かなる昔の良き日を思い、敬虔な祈りとなって昇華してゆきます。
主題後半の旋律のなかに、ベートーヴェンの連作歌曲集(遙かなる恋人によせる)のなかで歌われた同一の旋律があることで、ベートーヴェンは意識的に、その人にかっての心の思いを告げていたのです。
最後に、この主題が繰り返される時、それには過ぎし日のことを思う、ベートーヴェンの無限の諦観が忍ばれます。
このソナタはマキシミリアーネ・ブレンターノに捧げられました。
ここまでが、このソナタの表て向きの解説です。
最近の研究から、これら3つの最後のソナタは、ベートーヴェンの「不滅の恋人」と関連があるというのが通説となりました。そのことは別項、[ベートーヴェンの不滅の恋人]を読んでいただきたく思います。
ベートーヴェンが死んだとき、彼の机の秘密の引き出しから三つの遺品が発見されました。
ハイリゲンシュタットの遺書と、宛名も日付もない三通の恋文と、テレーゼ・ブルンスヴィックのミニアチュア肖像画です。それで、最初は「不滅の恋人」すなはちテレーゼと考えられてい ました。ベートーヴェンが作品78の可愛らしいピアノ・ソナタを捧げているテレーゼは、現在ボン市のベートーヴェンの生家に飾られている彼女の等身大の油絵を 彼に献呈していました。その油絵の裏に「類まれなる天才ベートーヴェンに」という彼女のサインが記されています。ちなみに彼女は生涯独身でした。
その後最近になって、ベートーヴェンの13通の恋文が発見されるに及んで、俄然「不滅の恋人」はテレーゼではなくて、彼女の妹、ジョセフィーヌ・ブルンスヴィックではなかったかという疑問が湧き出てきたのです。しかし、これも決定的な結論を得ることが出来ませんでした。とすれば始めの三通の恋文は誰に宛てて書かれたものなのでしょうか。
ベートーヴェンが生涯、誰にも迷惑のかからないようにと懸念して、じっと心の奥深く隠していたという心情を思うと、いじらしくて胸が熱くなるのですが、そこにベートーヴェンの 身近に居た人、 マキシミリアーネ・ブレンターノ嬢の母、アントニー ・ブレンターノ夫人が俄に浮かび上がってきたのです。
とすれば、病弱の夫人の隣室で、彼女を慰めるべくベートーヴェンがピアノを弾いたこと、あの激情の時期から10年も経って、それでもささやかな思いを楽曲のなかに散りばめて作品を書いたベートーヴェンの心は、なんと美しく万感の思いが込められていたことでしょうか 。その作品109をベートーヴェンは娘マキシミリアーネに捧げたのです。
ソナタ第31番、変イ長調作品110
このソナタの完成はベートーヴェンの自筆によれば1820年12月25日となっていてしかも、誰にも献呈されていません。
またしてもシントラーに宛ての手紙によると、ベートーヴェンはこのソナタと次の第3 2番ハ短調ソナタを、最初はブレンターノ夫人エルケ・ビルケンシュトックに献呈すると書いて いたようです。
変イ長調という調性は、ベートーヴェンにとって永遠なる母性を表す、特別の思慕の感 情の込められていた調性でした。たとえばその例として、悲愴ソナタの第2楽章、運命交 響曲の第2楽章、レオノーレを表す調性として無限に例を上げることが出来ます。
しかも、コン・アマビリタ(愛をもって)と書かれた、曇りない晴れやかな主題、それに 続く連綿たる愛のメロディー。このように美しい旋律で始められ、歌に満ちみちた楽章は ベートーベンの他の作品にはないでしょう。
それに続く、3楽章のアダジォ以降の哀しみの歌、アリオーソ、そして続くフーガ。
そしてその後に現れるベートーヴェン自身が書き記した「息も次第に絶えて」という指示のある二重のアリオーソ、哀しみの歌、息が絶えて死んだと思われたところからの、和音連打による復活、逆進行のフーガから主題への回帰、そして高らかなる生命の謳歌は感動的です。してみるとこの曲の基本的設計は二つの対比する精神状態ではないでしょうか。ベートーヴェンの心のうちにあった懐かしくもいとおしい、昔の追憶の第1楽章と、現在置かれている惨めな状態、病気に打ちのめされている自分、そのなかから不屈に立ち上がらんとする彼自身の精神状態を現しているのです。
急速な短い第2楽章の意味はまた違って考えられます。それは、当時ヴィーンでもて囃さていた流行歌、(おまえは下らない奴、俺も下らん奴、みんな下らん奴さ、)と云うなげやりな歌が、飾りのように使われているのです。それはベートーヴェン一流の自虐的当てこすり でしょうか。
このソナタはついに誰にも献呈されていません。
ソナタ第32番ハ短調作品111
いよいよベートーヴェン最後のソナタの登場です。
この永遠の終わりを告げるようなう楽章のソナタほど、ベートーヴェンの二元的論旨を端的に良く現している作品はないでしょう。男性的なものと女性的なもの、征服するものと懇願す るもの、地上の世界と天上の世界といった二つの対比する概念です。
このソナタはベートーヴェンのスケッチによれは、最初、アレグロ・コン・ブリオの主題から着想されたことがわかります。しかもその時点では、主題のハ短調の性格から第2楽章 はベートーヴェンお気に入りの調性、変イ長調のアダジオを考えていたようだし、第3楽 章はロンド形式、或いはフーガを考えていたらしいのです。
ところが、第一楽章のその導入に苦心して、マエストーゾの立派な構造を構築した時、 突如としてその導入の動機、ソからドに至る旋律〔ソラシド〕が閃いた時から、ソナタの 全体の構想は変わったのです。第2楽章はその対になる反対の動機、ドからソへという 音程によって、ベートーヴェンの着想は決定し、始めの計画であった第二楽章の変イ長調 のアダジオは全て放棄されました。
第2楽章はアリエッタ、アリア風の変奏曲として考案され、それは例えようもない簡潔な素材である和音進行によって構成され、それが変奏を重ねる度に細胞分裂のように細分化されてゆきます。そしてもうこれ以上には細分化は出来ないと言うところで、それは地上と天 空の世界とに分離してゆくのです。そして最後に主題への復帰によって、地上の世界と天空の世界とが合体し、それは段々に精神の高みへと昇華してゆき、消え失せます。
これ以後、ベートーヴェベンはピアノ・ソナタを再び書くことはなありませんでした。そのことからロマン・ロランやトーマス・マンによる、色々の美文の追悼や文学的創作がされています。
しかし、ベートーヴェンの雑記帳にはソナタにすれば50曲にも及ぶスケッチもあったことだし、また第9交響曲の後、第10交響曲、レクイエム、ファウスト劇なども計画していたことがあげられているので、ベートーヴェンが長生きしていれば、また素晴らしいピアノ・ソナタを書いていたかも知れません。