水戸芸術館の公開講座より
メカニック、テクニック、音楽性について
良く耳にする言葉に、あの人はメカニックがあるとか、テクニックがしっかりしているとか言うけれど、まずそのメカニックとは一体どのようなことを意味するのだろうか。
本来メカニックという言葉の意味は、機械とか機構という意味であって、それは指が機械的に達者に動くといった状態を説明するときに使用する。つまり、指が確実に独立して動くという機械的動作を意味することに使う言葉であって、音楽性とは全く関係がない。
次にテクニックとはなにか。これは音楽を表現するための技術的方法なのである。しかし、テクニックがしっかりしていないというような言葉は、えてしてメカニックのことと混同されているので誤解される。
演奏ということについて考えるならば、必ず音楽性について言わなければならないが、その音楽性を支えているのものはメカニックでなくてテクニックである。
したがってテクニックという言葉は、無味乾燥なことを意味しているものではない、ということを最初に認識することが非常に大切である。
五本の指がそれぞれに独立していて良く動くとか、打鍵が均一であるとか、そうしたことは音楽の基本的な訓練として非常に大切なことには違いないけれども、これはメカニックのことだけを言っているのであって、音楽性とは関係ない。
むしろメカニックがしっかりしていてよく訓練されていても、音楽を表現するためのテクニックが悪いために、音楽性に乏しいとか音楽性に欠けるとか思われたりすることも、しばしば起るわけである。
テクニックというものは音楽性をあらわすための技術、方法である。またそれは音楽に奉仕する一番重要な要素である。
そして技術、方法であるならば、当然そのことを習得するためのノーハウがあるわけで、技術であるならばそれのための訓練ということ、つまり技術の練習の仕方、つまりそのトレーニングの問題がでてくるわけである。
メカニックの練習として一番良く知られているのは、ハノンの練習曲である。
他にもチェルニーにもメカニック専用の練習曲もあるし、ブレーデイーの練習曲集等がある。
五本の指で和音を押えて置いて、他の指はそのままにしておいて、親指だけを上げ下げして鍵を打つ、人差指だけで打つ、小指だけで音を連打する練習などどいった、指の腱だけを鍛える練習曲がそれである。その他にも音階やアルペジオ等の基本的練習とか、一秒間にどれだけの音譜の数を弾くことが出来るか、等という事も基本的にはメカニックの練習である。
それではテクニックとはなにか。これは音楽全体に密接に係わってくる技術、つまりそれは音楽に奉仕する演奏方法全てである。
次に音楽性とは何か。それには二つのことが考えられる。
第一はまず楽曲に対しての精神的な理解力。
第二にその理解したものを実行に移すための技術、すなわちある音楽的な表現を目的とした動作の総合である。この二つが適切に結合されることによって、音楽性は成立っているのである。これがテクニックである。
では楽曲に対する精神的な理解力とは何か。
それは、作品が作曲家によってどのようにして作られたのか、その時代の背景、作曲家の意図、そして具体的に作品の構成を知ることである。
精神的な理解力を育てるということはどんなことかといえば、作曲家の創造の問題について、作品の構成の内容について、あるいは作曲家がどんな特徴を持っているかなどについて、様式とか時代背景についても、興味をもって勉強してゆき、それから得た知識を深めて行くことなのである。これが精神的背景の探求ということであるが、これは一寸勉強したからといってすぐ効果の出るものではない。こうしたことが初めて音楽を表現するためのテクニックの勉強につながるのである。
つづいてどのようにして望むところの音楽的な表現に到達するかという技術の訓練、トレーニングになるわけである。
トレーニングというからには、功を焦ってすぐ練習しがちであるが、そうではない。
昔、忍者が麻の実を蒔いて毎日それを飛越える訓練をしていた話がある。始めのうちは芽が出て2センチ3センチなど、何ほどのこともないけれど、やがてある日を境にして10センチ20センチと毎日驚くほど急速に草の丈が伸びてゆく。そうなるともうなかなか飛越えられなくなる、と言う。
テクニックの勉強、トレーニングの仕方にも、この話からヒントを得られるようなところがあって、絶えず根気よく、最終の高い次元での理想的な音楽の出来上りを想定しながら、毎日訓練を続けて行かなければならないのである。
ここで音楽を表現するために必要なテクニックについて、まず一番基本的なことを考えてみる。
ピアノの音楽は常に沢山の音の数があるが、一番判りやすく説明すると、メロディーと伴奏の問題がある。
メロディーはおおむね単旋律である。つまり一本の音の流れで、それに対して伴奏は音の数がずっと多い。またメロディーは長い音で書かれていて、伴奏の方は音が無数にあるというような場合もある。
するとメロディーと伴奏をおなじような強さで弾いたのでは、メロディーがメロディーのように聞えないし、場合によっては伴奏によって消されてしまうことにもなる。つまり伴奏の音量がメロディーを凌駕してしまうのである。
だから伴奏を小さく弾きなさい、などと言われる。そうすると今度は伴奏の部分は、まるっきりメロディーとは無関係にただ小さく弾かれる。これでは言っている言葉の本当の意味が判っていないことになる。小さいながらも伴奏もメロディー同様に歌を一緒に表出しなければならない。これが伴奏の適切な役割である。
そこにメロディーと伴奏とのバランスの問題が当然出てくるし、音楽的に一緒に流れ動くためには、常にメロディーとのデリケイトな関係が成立ってくるわけである。
それをどう実現させるのかが、テクニックであるので、それを音楽的に進展させるようにすることが、音楽を勉強することである筈である。 その時に音楽や音楽性と一体になった重要な問題が出てくるのである。
次に音楽でおなじような難しい言葉として、アゴーギクとアーティキュレーションという言葉がある。
アゴーギクと言うのは、旋律の始りを少し抑え気味にして始めるとか、リズムの終り方に少し変化をもたらすといった、簡単にいえば旋律やリズムの動きの微妙な変化の具合のことを説明する言葉である。
従ってアゴーギクの全くない音楽は存在しないし、もしアゴーギクなしに演奏すれば音楽の運びは電子音のように一本調子に聞えるわけである。
アーティキュレーションというのは、旋律やリズムの音そのものの発音状態を説明する言葉である。 音譜の発音に係わる状態、音の長短についてのテヌート、スタッカート、小さなアクセント付けなどである。これをうまく使うことによって、旋律や音形の発音を生き生きとさせたり、音節に微妙な変化をつけることが可能となるのである。
こうしたことがみんな正確に理解されないまま、音楽の説明に混乱して使用されてはならない。ただ長短強弱の音が物理的に並んでいるだけでは、旋律が歌っているようには聞えない。それは高さの異なる音が並んでいるだけであって、旋律の表情として何の変化も付くはずがない。
アゴーギクということが理解されていないから、旋律が一本調子であると指摘されてもどうしてよいか判らない。
アーティキュレーションということがわかっていないから、発音の仕方が悪いといわれてもどうしてよいか判らない。これでは悪循環である。
アゴーギクとアーティキュレーションの変化は旋律の表現には不可欠である。
そして音楽の基本的要素である旋律には、ほんのわずかなクレッシェンド、デイミヌエンドといった微妙な変化が常にある。
これらを表現に取入れて実行するということは、その人が音楽をすることなのである。
そこで、さっきから色々と説明していることを総合して実行するために[タッチ]という、ピアノの演奏には欠かすことのできない打鍵の問題が最後に出てくるわけである。
動機、旋律、楽節をどのようにして演奏するかという具体的動作、実行に移す指の触覚がタッチであるのだが、これは極めてやっかいな感触であり、その奏法は千差万別で、良い教師の指導のもとに体験的に習得する以外に方法はない。
それにアーティキュレーションやアゴーギクがあって、初めて旋律やリズムは生き生きとした精彩を得ることとなる。この極めて忍耐力を必要とする訓練なしに、ただ思いつきだけで音楽の表現を適切に扱うことは出来ない。
よく言われることで、[自分の音を聞きなさい]という。
何を聞くのか。つまりどのくらい音が強いか弱いか、旋律と伴奏のバランスの関係はどうか、ということは大体聞えている筈である。
しかし今ここで説明したことについて、もしも何の関心ももっていないとしたら、自分の音は聞えていても聞いていないのと同じで、どう判断して良いのか判らない。
確かにまず自分の耳で聞き取らなければ駄目で、指の感触だけで無頓着に弾いているのでは進歩がない。本当にその音楽を表現するためには、その箇所をどうしたらよいのか、それに相応しい音の組合わせになっているのかどうかを、常に細心の注意をはらって監視することが大切である。
それを音楽的に修正して実行するのは、メカニックではなくてテクニックなのである。
音楽を表現するためには全体の計画や目標がなくては演奏の意味がない。そこで音楽についての普段からの関心、勉強、知識が大変重要になってくる。 色々な音楽を注意深く聞くことが大切である。