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レクチュア

水戸芸術館の公開講座より

ロマン派のピアノ曲

(園田高弘、水戸芸術館 公開講座 97年11月)


 ロマン派の作曲家といえば、ピアノ音楽の歴史を語る上で大きな役割を果した三人の作曲家たち、シューマンとショパン、それにリストをまず取上げなければならない。
 シューマンはドイツのザクセン州ツヴィカウで生れ、ショパンはポーランドのワルシャワ近郊で、リストはハンガリーの片田舎ライデンで、不思議なことに殆ど同じ年、1810年と11年に生れている。

 よく一括してショパン、シューマンと言われるが、この二人の作曲家は人間の性格も作品の内容も全く異なっている。 第一この二人は、ショパンがワルシャワからパリに行く途中に、シューマンと軌跡が交差しただけで、シューマンはフランス語が喋れず、ショパンはドイツ語が出来ず、意志の疎通があったとは思えない。
 それに比較すれば、シューマンとリストの交流はずっと密であったし、またリストはショパンともパリ時代にライヴァルでもあり親密な交流があった。

 それにしてもこのロマン派を代表する三人の作曲家たちはお互いに尊敬していて、ショパンはシューマンに『バラード第2番』を捧げ、シューマンはショパンに『クライスレリアーナ』を、リストはシューマンに『ソナタロ短調』を、ショパンはリストに『12の練習曲作品10』を献呈したというピアノ音楽史的偉業が企まずして行われた。

 この19世紀は全体として、ロマン主義の時代に属しているが、それは社会的にも非常に複雑な時代で、進歩的思想と保守的思想の厳しい相剋、社会不安の時代であった。

シューマンについて || ショパンについて || リストについて


シューマンについて

 シューマンは幼少からピアノを学び、かなり上手に演奏していたが、長い間、文学を志すか音楽の道を選ぶべきかを自ら決しかね、煩悶した時代があった。  この時代、シューマンはライプチッヒ、ハレ、ハイデルベルク大学で哲学や法律を学んだ。当時音楽家として生計をたてることは世間一般の常識として全く社会的通念を越えた問題外のことで、普通、大学で法律を学び、卒業して官吏として職に就くことがもっとも安定した生活と思われていた。
 シューマンもその例にもれず、大学に入り法律を学んだ。
 時は折しも、イエナ、ハイデルベルクではドイツ浪漫主義勃興の時代であり、シューマンは詩人のノヴァーリス、シュレーゲル兄弟の思想にいたく共感し、特にE.T.A. ホフマンの幻想小説や、ジャン・パウルの通俗小説からは具体的なヒントを得て、小説を試みたり手紙の文体をジャン・パウルに似せて書いたほどの傾倒ぶりであった。

 ドイツ文学史をのぞいて、詩人ノヴァーリスやシュレーゲル兄弟の思想をひもとき、ジャン・パウルの小説を読むと、シューマンの音楽着想がそこにあったのかということに氣付くのである。
 シューマンの作品を一瞥しての特徴としては、色々の標題のついた小品群を集めて書かれたピアノ作品の多いことである。
 シューマンの作品にみられる夥しい標題は、明らかにシューマン一人の着想ではない。それはジャン・パウルの小説『生意気さかり』或は『仮面舞踏会』であったり、また、ホフマンの『カロ風幻想小品集』や『楽師ヨハネス・クライスラーの追想』などから、具体的な題をとりあげていることが判る。

 ここでノヴァーリスのことに触れなければならない。
 ノヴァーリスは23歳の時、13歳のソフィー・フォン・キューンという少女に出会い、一生を決定する運命的な恋愛をしたのである。ソフィーは16歳で結核により死亡、彼女に対するその切実な思慕のなかからロマン的世界観に満ちた『夜の讃歌』が生れた。
 長編『青い花』は、主人公ハインリッヒ・フォン・エフターデインゲンが、夢に見た青い花のなかの少女を求めて旅立ってゆき、詩人として円熟してゆく行路を描いたもので、ノヴァーリスの芸術観は、人間の心の内面には無限に豊富な神秘の世界があることを信じ、この考え方から[夢=トラウム]というものに対して、特別に重要な意義をみとめる傾向があった。現実生活で無意識に現れる[夢]と同じものを、芸術家は作品において自由に創造することが出来る、ということから[メルヒエン]すなわち[おとぎ話]の世界を重要視している。芸術の最上の境地は自然と精神の完全なる融合として[メルヒエン]の世界を指摘しているのである。

 文学青年であったシューマンがこの考えに熱烈に傾倒したことは、シューマンのピアノ作品のなかに証明されている。
 又、シューマンの私生活の方も、ノヴァーリスと少女ゾフィーとがたどった運命的出会いをそのままに、シューマンには後に妻となるクララ・ヴィークとの不思議な出会いの符合がある。事実はシューマンが厳格なピアノ教師、フリードリッヒ・ヴィークのところに弟子入したころには、ピアノの少女クララのことなど全く関心がなかった。
 それがクララの成長とともに、ノヴァーリスがゾフィーに懐いたような感情にシューマンがだんだん変化していったということは、シューマンの精神的深層にノヴァーリスへのあこがれがあったことと、シューマンが生れながらに持っていた性格因子、つまりある種の精神病的執着があったのであろう。

 シューマンに影響をあたえた他の文学者、シュレーゲル兄弟も忘れることは出来ない。
 シュレーゲルの考え方は、神話というものは[ファンタジー]と[愛]よってかもしだされた自然の象形文学的表現に他ならないとしている。
 シュレーゲルは、人間の想像力の根元にはその原始的形式としての類型があり、それを[アラベスク]と呼んでいる。これは彼の浪漫的芸術観にあってとくに強調されている表現だが、[アラベスク]とは個々の現象を想像力の自由な遊戯によって、なんの統一的中心もなく無限に展開してゆくことを意味することである。

 シューマンの好んで使用した[夢][愛][アラベスク]といった概念は、それらから着眼されたものであり、シューマンが音楽をどの様に表現しようとしたのかも、これによって推測することが出来る。

 このように、シューマンの音楽の考え方を形成しているものは、実はシューマンが詩人になろうか、音楽家になろうかと長い煩悶のときを送ったことが、シューマンの特徴ある音楽にとっては決定的なこととなった。

 これはメンデルスゾーンやショパン、リスト、後にシューマンの妻となったクララ・ヴィークのように、最初から職業音楽家となるべく順調な経路を歩んだ音楽家の体質とは根本的に相違するものである。

 最初のこの時期のシューマンの音楽には、ベートーヴェンの影響は殆どなかった。事実17歳のころ、シューマンがベートーヴェンの交響曲を初めて耳にしたときには、あまり関心を示さなかったとされている。しかし、不思議なことに彼にベートーヴェンの偉大さを、特に後期のソナタを、或はバッハを認識させたのは、娘クララとの結婚をあれほど激しく、裁判にまで訴えて反対し続けた恩師ヴィークであったのである。

 シューマンの音楽の特徴の一つに、[ドッペルゲンガー]音楽的表現の二重人格化がある。 それはシューマン自身の性格の分析でもある、絶えず夢を見るような夢見心地の状態つまり[オイゼビュース]の人格と、その対照的存在、絶えず激昂した行動的な状態、つまり[フロレスタン]の人格を、シューマン自身の創造によって音楽のなかで対比させることである。
 シューマンの音楽のもう一つの要素である技法上の特徴は、ヴィルチュオーソに対する異常なまでの関心と執着であろう。それは彼自身最初はピアニスト、ヴィルチュオーソの演奏家としての成功を望んだことにもよるのである。
 当時ヴァイオリニストとしてヨーロッパを席巻し、圧倒的な名声を得ていたパガニーニを聞いて、シューマンはひどく感激した。その結果、作品5と10の『パガニーニ練習曲』が創作されているが、シューマンはこれによって、ヴァイオリンの独自の奏法をピアノに持込むことを考えたのである。
 しかしそれは、同じくパガニーニの演奏に魅了されたリストによって、ピアノの技巧的にさらに拡大展開され、超絶技巧の名曲として完成されたし、またさらに後年ブラームスによっても、パガニーニ変奏曲のようなピアノの技法の究極の芸術品にまで洗練されていった。
 もう一つシューマンのピアノ曲で特徴的なことは、その創作時期がクララ・ヴィーク嬢と結婚するまでに集中していることで、[謝肉祭][ダヴィッド同盟円舞曲][幻想曲集][交響的練習曲][大幻想曲][クライスレリアーナ] 等々がクララへの切々たる思いとそれに対する偏執が創作という行為となって昇華して次々と作品が生れた。
 しかるに結婚して現実にクララの声を耳にするようになると、今度は創作の関心は歌曲の方へ移行することになった。ここにもシューマンの精神的偏執症の証を見ることができる。

ショパンについて || リストについて


ショパンについて

 ショパンの作品ほどポーランドの国民的特徴の著しいものはない。 これをショパンの愛国心のためだとするのは誤りであると思う。
 ショパンの音楽について語るとき、先ずショパンの音楽がどんなに深く国民的土壌に根ざしているかを注目しなければなるまい。
 ポーランド人は非常に興奮し易い性質である。容易に怒り、容易に静まる。騒々しいことが好きであり、社交上手である。大変に派手好きでその豪華な帯は衣服の肝要な部分となっている。
 詩人ハイネはポーランド貴族の特徴をこう述べた。[客あしらいが良く、高慢で勇敢で、柔和で、虚偽に満ち、興奮しやすく、情熱的で、賭博にふけり、遊び好きで寛大傲慢である。さらに非信頼性や疑い深さを加えた観察者でもある]と。

 ショパンは1810年2月22日にワルシャワから約28マイル離れたジェラゾヴァ・ヴォラの小さい家で生れた。父ニコラスはフランスの出。母アンナ・ユスチナはフランスのピアニスト、コルトーによれば[ショパンが真に愛した唯一の女性]、ジョルジュ・サンドによれば[ショパンの唯一の熱情の対象]と言われている。
 老齢な母ユスチナと会ったスコットランドの一婦人は[身きれいな、物静かな、理知的な老淑女で、その活発さは、身体に精力の影をもっていない息子の不活発さと強い対比をなしていた]とのべている。

 長女ルドヴィカ、上の妹イザベラ、結核で14歳で死んだ下の妹エミリアにはさまれて、つまり女性本位の家庭で育ったことは、ショパンと言う人間形成の課程で性格に大きな影響を及したであろう事は推測できる。

 ショパンは6歳の頃よりアダルベルト・ジヴニーと言う老音楽家について勉強を始めたが、後年リストはジヴニーについて[熱心なバッハ学徒]であり、全く古典的な学派の方法でもって生徒を教えた、と語っている。
 その後12歳のとき、ワルシャワ音楽院長のエルスナーに師事して勉強を続ける。
 エルスナーはシレジア生れのドイツ系音楽家、教師、指揮者であり、また非常に多作の作曲家であった。
 しかし教師、指揮者および組織者としての活動派、ポーランド音楽院の発展にとって有益であった。

 ショパンの初期、第一期の作品
 1829年までの作品を調べてみると、マズルカ、ポロネーズ、ノクターン、ピアノとオーケストラのために[お手をどうぞ]の変奏曲、ピアノとオーケストラのための[クラコヴィアク]と、[演奏会用の大ロンド]、ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重奏曲などがある。
 このようにショパンの作曲は先ず国民的音楽、土族の民謡などから着想を得て創作され、次第次第ににショパン独自の作風によって作品が創作されていくのである。
 批評家たちは、[これらは概して賞賛にあたいする作品であり、いささか横道にそれてはいても、近代の作曲家たちの普通の作品よりもよい方向に進んでいる]と論評している。

 これについて、イワシュキェフィッチはそのショパン伝で[ショパンの音楽は彼と同じ時代の作曲家の音楽との間に深い関係があった]ことを指摘している。 具体的には作曲家フンメル、フィールド、モシェレス等の同じような作品を指摘する事が出来るとしている。それにはさらにウェーバー、チェルニー、クラマーといった作曲家達を加えることも可能であるだろう。このようにして創作は開始された。

 ちなみに、民謡的な代表作としてショパンが生涯にわたり、その死の床においても絶筆として創作したマズルカ民族曲があるが、マズルカとは、マゾフシェ地方に古くから伝わる民族舞踊、舞曲であって、クヤヴィアク(ゆるやかなテンポ)、オペレスク(速いテンポ)、マズール(中庸なテンポ)という三種類のものがある。

 またピアノの演奏家として格段の才能を示した練習曲は、ショパンの10代から20代にかけての作品であった。 この作風が大きく変化したのは、革命の動乱をさけて祖国ポーランドを発ち、パリに移り住んでからのことである。
 パリでいわゆるサロンに出入りして、そこで詩人のミケヴィッチ、作家のミュッセとジョルジュ・サンド、画家のドラクロワ、音楽家のマイヤーベールやリストといった、当代一流の芸術家達と交わることによって、ショパンの作風は大きく変化し、作品はより構成的になりドラマチックな劇的表現をもつことになった。
 パリに移り住んでからその代表的作品としては作品23、38、47、52のバラードであって、同じポーランドの詩人ミケヴィッチの詩の音楽的展開である。
 またショパンのそれまでの作品がと各作品の形式は単純であったものが、パリ時代になってから突然構成的になったことは、サロンに出入りしていた様々な芸術家たちの影響を見過すわけにはいかない。
 たとえば作品35の第二ピアノソナタ[葬送]では、長いこと専門の音楽家達によっても指摘されなかったような、提示主題の省略や各楽章の緊密な関連と言った構造が、にわかに注目を浴びるようになった事もそれである。

 そのプロセスがあったればこそ、死の直前までにいたる晩年の宝玉のような感情の起伏と陰影に彩られたが、そこにはデカタンスの兆候もほのかに見え隠れする作品58の第三ソナタ、作品59のマズルカや、作品60のバルカローレ、作品61の幻想ポロネーズなどの傑作が生まれたのである。
 ショパンは39歳の若さで結核で死んだ。

シューマンについて || リストについて


リストについて

 もう一人のロマン派を代表するピアニストのリストは、1811年10月22日にハンガリーの片田舎のライデイングに生れた。家は祖父の代からエステルハージー家の管理人で、父、アダム・リストは土地管理人であって、かたわら楽団のチェロ奏者を務め、合唱ではバスを歌うハンガリー人。母マリア・アンナはオーストリア人であった。
 リストは6歳からピアノを習い、8歳で既に宮廷で演奏、天才ぶりを発揮した。貴族の力添えで600グルデンの奨学金を得てライデイングを去り、ヴィーンへゆく。
 本来はワイマールでフンメルに師事するつもりだったが、ヴィーンでチェルニーに師事、ヴィーンのレドウーテンザールの演奏会のとき、たまたまこの天才少年の演奏を聞いていたベートーヴェンから祝福のキスを受けたという有名な逸話がある。

 12歳のとき本格的な勉強をするために親子3人でパリに行った。パリのコンセルヴァトアールに入学を希望したが、外国人を理由にケルビーニ校長から入学を断られる。翌1824年3月、13歳の時、パリで第1回のリサイタルを行い、驚異的な成功を収め、一躍楽団の寵児となり、ピアノ製造家エラールの後援を得る。
 リストは当時の演奏家として初めて独立した演奏家業を確立して、フランス、イギリス演奏旅行を企て、成功を収めた。リスト16歳の時、父を失い、宗教的に目覚めていた時でもあり、その後3年間苦悩の生活を送る。
 そのリストの混迷は1830年7月の革命の衝撃によって目覚めた。またその翌年1831年、ヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏を聴き、非常なショックを受けて、猛然と[ピアノのパガニーニ]になることをを決意し、もともと天より与えられた素質と、驚異的な大きな手によって、オクターブ、3度、6度とピアノの技巧を磨くのである。
 22歳の時6歳年上のダグー夫人と出会い、激しい恋に落ちて1835年24歳でスイスのバーゼルに駆落ちをする。その後ジュネーヴに居を構え、音楽学校の教師となる。ダグー夫人との間に、ブランデイーヌ、コジマ、ダニエルの3人の子供が誕生したが、39年には事実上別れてしまった。時にリスト28歳であった。

 1847年2月ロシアに演奏旅行のおり、キエフでカロリーヌ・ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人に出会う(36歳)。約10年にわたるヨーロッパ演奏旅行を終え、このヴィットゲンシュタイン侯爵夫人とワイマールでの同棲生活が始り、リストはまた作曲に専念するようになる。

 ワイマール時代のリストは宮廷指揮者として活躍し、ワイマールの黄金時代を築くこととなった。それには無名の作曲家ワーグナーを援助したり、ベルリオーズの作品の初演なども行う。
 敬虔なカトリックであったリストは、長年の同棲生活にきりをつけて正式に結婚すべく準備をかさね、1860年10月22日ローマでの結婚の日取りまで決めていたが、その前日、ヴァチカンよりの許可が下りず、それを契機にヴィットゲンシュタイン夫人とは別居してしまった。そしてヴィットゲンシュタイン夫人は神学を学ぶ宗教生活に入り、リストも修道院に入ってしまう。(50歳)
 1869年 再びワイマールに戻り、ローマ、ブタペストと巡礼の旅を始め、以後、後進の指導にあたる。
 1886年、バイロイトにワーグナーのオペラを聴きに訪問、旅行途中に引いた風邪がもとで娘コジマにみとられ死亡、75歳であった。

 作品としては、ピアノ作品としてリストが生涯にわたって書いた巡礼年報をまず挙げなければならない。
 1838-39年  第1年 スイス
 59年  第2年 イタリア、ヴェネチャ、ナポリ
 67-77年  第3年、糸杉、悲歌、エステ荘の噴水
 次に51年に改編した超絶技巧練習曲、及びパガニーニ練習曲
 またリストの代表作とみなされているハンガリー狂詩曲 46年、47年、53年
 ピアノソナタ 52年ー53年
 バラード第2番 53年
 BACHの主題による作品 71年などがあげられる。

 リストの業績は、ピアノの名手としてヨーロッパ中を演奏して回り、その卓絶した技巧と精神性によって万人を驚愕せしめた演奏家の時代を経て、後には音楽芸術の巨匠としてヨーロッパ中のピアニストから驚嘆と崇拝をうけて神のごとく尊敬された。
 作曲家としては、ピアノ曲は無数であり、当然のことながら技巧的な作品が多く、それによってピアノのテクニックを一大発展させた。
 それとは別に、当時は多くの都市にまだオーケストラ、或はオペラなどは存在しなかったので、有名な交響曲やオペラの編曲を演奏することによって、広く音楽愛好家の趣向を開拓したことが挙げることが出来る。
 また、オーケストラ詩曲、交響曲によって創作の新しい分野を開き、とくにピアノ曲では一楽章形式による協奏曲、ソナタ、また超絶技巧練習曲など、後生のピアノ作品に多大の影響を与えることとなった作品を書いた。
 また音楽教育指導の分野ではピアノ教祖として、いわゆる教則本の出版の道を開き、その指導薫陶から弟子達、ハンス・フォン・ビューロー、オイゲン・ダルベール、ブゾーニ、シュナーベル、等によってこの業績は受継がれることにもなった。
 また音楽思想家としても、ワーグナー、シェーンベルクと続く調性音楽の崩壊、無調音楽への来るべき近代を予感した哲人でもあった。