2009年10月英語版「Biography(E)」「Discography(E)」更新

レクチュア

ベートーヴェンのピアノソナタ考

楽譜の発達とピアノのテクニックとの関係について



楽器の発達とピアノのテクニックとの関係について
 ピアノを勉強するとなると、我々はなんの疑いもなくピアノの前に座って、楽譜を見て 弾き始めるのが普通です。
 しかし、これは良く考えてみれば不思議なことで、バッハは勿論のこと、ハイドンやモーツアルトのほとんどの作品、そしてベートーヴェンの大部分の作品も、今日我々が見る ような立派なピアノという楽器のために書かれたものではなかったのですからそれらの作品の演奏について色々な問題が出てくるのは当然なことなのです。

バッハの時代
 だいぶ前に、東ドイツのアイゼナッハと言う、バッハの生まれた場所を尋ねたことがありました。そこにはバッハの記念博物館があって、バッハ時代に使われていた色々の楽器の夥しい蒐集があります。文化観光局の管理人の女性ガイドさんが、「バッハ時代の楽器はこれです」と説明しながら、小さなスピネットという三角形のチェンバロの楽器の前に座って、 バッハの二声と三声のインベンションを弾いてくれた時、そのあまりにも華奢な繊細な美 しい音色に驚いたことがありました。
 その部屋には、線が横に張られているクラヴィコードや、二段鍵盤のチェンバロといったバッハの時代に使われていたオリジナルな楽器が沢山集められていて、それらの楽器で 平均律の曲やイタリア風協奏曲など色々な曲を演奏してくれました。
 その時に「あ、我々の耳は随分と現在のピアノの音によって汚染されているんだな」と 。つまりそうしたことを常に考慮しながら、バッハの作品を演奏していかなければいけないんだなと思ったのです。
 つまりバッハの時代(1685−1750)には、器楽の作品は全て、クラヴィコードかチェンバロによって演奏されていたということです。それにしても、piano forte と いう楽器は、バッハの終わり頃になって出ては来たが、状態は良くなかったようで、バッハの時代には、ピアノは存在していなかったと言ってもよろしいし、バッハの時代とは少し違っても、ハイドンやモーツアルトの時代になっても同じようなことが器楽作品についても言えるのです。

ハイドンの時代
 ハイドン(1732−1809)時代の楽器というのは、シュタインとか、ワルターという楽器で、それらは現在ウィーンの楽器博物館や、ベルリンの博物館で見かけますが、ワ ルターの楽器は現在1784年のものが残っているし、シュタインの楽器で1789年に はウナ・コルダ付の楽器もあります。
 ハイドンは楽器にたいして特別な好みはなかったようです。そのことは彼のピアノの 作品を見ると窺い知ることが出来ます。それほど鍵盤楽器というものに情熱を燃やしてピア ノの曲を書いたようには思えないけれど、年代的にいっても、ハイドンのピアノソナタの最後の Es-Dur、C-Dur の頃に現在のピアノに近いpianoforteの楽器が始めて出現したようで、そ こに初めてピアノという楽器を意識して書いたパッセ−ジが、作品のなかに現れています。
 その点、モーツアルトについては事情が少し異なります。

モーツアルトの時代
 文献によればモーツアルト(1756−1791)は少年時代に、シュペートの楽器を演奏していたようです。しかし性能があまり良くなかったので、大抵はチェンバロを好んで演奏していました。
 1777年(21才)の時に、ウィーンのシュタインのピアノを弾いて以来、モーツアルトはピアノの虜となったことが知られています。
 モーツアルトの沢山のピアノ作品、とりわけ27曲にも及ぶピアノ協奏曲は、彼のピア ニストとしてのトレード・マークであり、その新作を演奏することによって、常に音楽界の寵児たらんとして、次からつぎへと作品を書き上げた痕跡を見ることが出来ます。

 モーツアルトの使っていた頃のピアノは音域は5オクターブ、アクションはヴィーンナーアクションと言われるあまり敏感でない機構で、鍵盤の重さは28gと現在の我々のピアノの60g70gに較べれば全く軽いものだったわけです。
 ハンマーにはカモシカ皮が張ってあったし、線は高音部はスチール線で、低音部も巻線は全く無かったのです。

ベートーヴェンの時代
 それがベートーヴェンの時代になると、作曲家と楽器の発達によってその関係は大分変化してきました。また、ベートーヴェンにとってピアノと言う楽器は最も身近な創作の友であり、生涯にわたって心を託した楽器であって、初期の創作の頃から晩年に至るま でピアノ作品を書き続けたのです。
 このようにベートーヴェンの作品創造の経過は、奇しくも楽器の発達の歴史と密接に係わって行くこととなります。

 ベートーヴェンが生涯演奏した楽器は沢山あって、即興に、或いは独奏に各種のピアノを 演奏しました。記録によって知られているものだけでも幾種類のものがあります。最初のボン時代には、ワルトシュタイン伯爵から贈呈された、ツーフェンブルックという無名の楽器。ヴィーンに来てからは、リヒノフスキー公女から贈られたフオーゲルという楽器を、そして1800年頃にはヤケッシュと言う楽器を使用していた記録があります。
 そしてベートーヴェンがピアニストとして演奏活躍していた1792年頃には、ワルター或いはシュタインといったピアノを演奏していたようです。
 ベートーヴェンの弟子であるチェルニーの証言によれば、1800年頃、ベートーヴェ ンの部屋にはマホガニー色のワルターの楽器があり、それは音域は5オクターブでfからfまでの61鍵盤。その頃の大型チェンバロと同じくらいの楽器であったようです。
 つまり、ベートーヴェンが彼の最初の初期のピアノソナタ、Op.2.の三曲を書いた頃には、ピアノと言う楽器もそのような発展の経過を辿り、ベートーヴェンの身辺に存在していました。そしてベートーヴェンはそれらの楽器の性能を駆使して、彼の初期の意欲的な三曲のピ アノ・ソナタを書いたのです。
 たとえば、Op.2 Nr.1 へ短調のピアノ・ソナタの終楽章には、当時の楽器の音域の全て使って高音から低音までかけ降りるという、ベートーヴェンらしい野望が見受けられます。

ピアノ・ソナタ
 このようにして、ベートーヴェンの初期のピアノの作品は書き始められましたが、作品の楽曲構成という観点から見ると、ベートーヴェンの意欲的なピアノ・ソナタはただ偶然の思 い付きによって出現したのではありませんでした。
 ここで、作品構成についてそれが作曲家から作曲家へどのように変化していったかについて考えてみましょう。

 ベートーヴェンの師であったハイドンのピアノ作品、それとモーツアルトの作品などを調べてみると、色々なことが判ってきます。
 先ずハイドンの大抵のピアノ作品、つまりピアノソナタの楽章構成では次のようなことが作品の特徴として上げられます。

 ハイドンは生涯53曲のピアノソナタを書いています。その数は確かに多いものの、実は類似の楽章構成の作品が、その大部を占めています。
 最初に、Allegro の早い楽章、次にゆっくりとしたAndante の楽章がつづき、最後に、 Menuetto、或いはTempo di Menuetto 、すなわちメヌエットの速度で、という作品構成のものが全ピアノソナタの3分の1にも及んでいます。

 それがモーツアルトとなると少しづつ、作品のなかでの楽章構成に変化が観られるようになり、ピアノソナタの基本的な形式、Allegro, Andante, Allegroと云う形式が、第3楽章にRondo をもってきたり、アレグロの終楽章を、更に早い速度、Prestoに配置を変えたりすることとなってきます。
 こうした楽章構成によって普通ピアノソナタを書いていたので、例えばあの有名なK.V. 311. A-Dur のトルコ行進曲付のピアノソナタなどは、例外中の例外です。
 あのソナタは第1楽章はThema: Variationen つまり主題と変奏、第2楽章が Menuetto 、第3楽章は、かの有名なトルコ風の行進曲、Alla turca, Allegretto です。 このリズムは、トルコのサルタンの精鋭な軍隊の吹奏楽器と打楽器によって奏される、 Jarnitscharen-musik という、リズミカルな律動感を借用したもので、したがって必要以上に早いAllegro の速度で演奏することは間違いなのです。

 このように、ピアノソナタの基本的な形式である、Allegro, Andante, Allegro または、 Allegro,  Adagio, Prestoといった楽章構成を明確に理解しないまま、例外的な変則的な名曲だけを勉強することは、形式に対する関心と理解力について、勉強の初期の段階から間違って養ってゆくことにもなります。曲の早さ、楽章の速度についての基本的な関係を見失ってしまうことは大変に残念なことです。

 こうしてハイドンやモーツアルトを経てベートーヴェンが出現するのですが、その時点までには楽曲構成や楽章構成の殆どの基礎が出来上がっていたということは、音楽史の発展の歴史をたどるとは云え、そこに神の摂理を感じるのです。